文部省唱歌「夕焼け小焼けで日が暮れて」、誰でも子供の頃に口ずさんだことのある童謡です。
真っ赤な夕焼けの状況や、小学生の頃の事が今でも鮮やかに記憶が蘇るのではないでしょうか?
この童謡について、夕焼け小焼けの[小焼け]の意味に付いて解説します。
夕焼け小焼けの小焼けに付いて解説します!
歌詞は
「夕焼小焼で日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
お手々つないで皆帰ろう
烏と一緒にかえりましょう」。
「子供がかえったあおとからは
まあるい大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは
空にはきらきら金の星」
夕焼けで空が赤く染まる町を、子供たちと手をつないで帰る、中村雨紅氏や草川信氏の幼い頃の姿が目に浮かびますね。
さてこの歌の夕焼けは両氏が子供の頃に見ていた光景です。
夕焼けは言葉の意味から分かると思います。
太陽が西に沈む時に、空が焼けたように真っ赤に染る事です。
小焼けとは?
夕焼けほど鮮やかではないけど、夕焼けが終わって太陽が沈んでから暫くすると、太陽に照らされた空がもう一度赤くなります。この現象が小焼けです。
夕焼け小焼けで…..語調を整えるために添えた言葉とも言われています。

夕焼け小焼けの山のお寺のモデルはどこでしょうか?
夕焼け小焼けの作曲家である、草川信先生が歌のモデルとしたお寺で、長野市の往生寺が歌の山のお寺のモデルです、という説や「山のお寺」は中村雨紅氏が子どもの頃に見ていた恩方周辺の寺をイメージしたもの等、諸説あります。
この説は長野市では非常によく知られています。
長野県出身の作曲家 草川信 が童謡『夕焼け小焼け』を作曲する際にイメージした「山のお寺」は、長野市の 往生寺 であると伝えられています。往生寺には「夕焼け小焼け」の歌碑や、モデルとされる鐘があり、地元でも「童謡のふるさと」として紹介されています。 (地元のコミュニティに出会えるプラットフォーム[コミュチカ])
ただし、「夕焼け小焼け」のモデルについては諸説あり、長野市内でも往生寺のほかに 阿弥陀寺 が関係するという話もあります。
戦後には「どちらが『山のお寺』のモデルなのか」が話題になった記録も残っています。 (レファレンス協同データベース)
一方で、作詞者の 中村雨紅 は東京の日暮里で教師をしていた時代の情景をもとに詞を書いたとされるため、
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作詞の原風景 → 東京・日暮里周辺
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作曲でイメージした「山のお寺」 → 長野市の往生寺
という形で理解されることが多いです。 (平和な世界を祈るおじさんのブログ)
そのため、「草川信先生が歌のモデルとしたお寺は長野市の往生寺」という説明は、地元資料や紹介記事でも広く採られている見解です。 (地元のコミュニティに出会えるプラットフォーム[コミュチカ])
童謡『夕焼け小焼け』の「山のお寺の鐘が鳴る」のモデルについては、実は公式に特定された一つの寺はありません。
この歌を作詞した 中村雨紅 は、現在の 八王子市 上恩方町(旧・恩方村)の出身で、故郷の風景をもとに詩を書いたとされています。(世界の民謡・童謡)
そのため、「山のお寺」は中村雨紅氏が子どもの頃に見ていた恩方周辺の寺をイメージしたものと考えられており、候補としては次の寺がよく挙げられます。
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宝生寺
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観栖寺
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興慶寺
地元では、この3寺のいずれか、あるいは複数の寺の情景が重なって歌詞になったのではないかと考えられています。(八王子ジャーニー)
特に 宝生寺 には『夕焼け小焼け』の歌碑があり、モデル寺の有力候補として知られています。(八王子ジャーニー)
また、八王子には 夕やけ小やけふれあいの里 という施設もあり、『夕焼け小焼け』のふるさとの風景を今に伝えています。(釣りあそびジャーナル)
つまり、「山のお寺」は特定の一寺ではなく、八王子・恩方の里山にあった寺々の夕暮れの風景そのものを表した可能性が高いとされています。(八王子ジャーニー)

夕焼け小焼けはどこにある童謡でしょうか?
童謡詩人中村雨紅(1897年から1975年)が、大正5年(1916年)に第2日暮里小学校へ教師として赴任、その後、第三日暮里小学校へ転勤した後の大正8年(1919年)に作詞した作品です。
荒川区立第三日暮里小学校には、この童謡にちなんだ記念塔が建てられています。

第二日暮里小学校には記念碑があります。
夕焼け小焼けいつの歌?作詞.作曲は誰!
童謡詩人中村雨紅と作曲した草川信氏との共通点は生家の近くにお寺があったことです。
(1897年から1975年)が、大正5年(1916年)に第2日暮里小学校へ教師として赴任。

その後、荒川区の第三日暮里小学校へ転勤した後の大正8年(1919年)に作詞した作品です。
作曲した草川信氏との共通点は生家の近くにお寺があったことです。

「世界音楽全集」春秋社(1930年)の楽譜の終わりに草川氏自ら「大正11年作る」と記しています。
夕焼けで空が赤く染まる町を子供たちと手をつないで帰る雨紅の姿が目に浮かびますね。
この歌の地域は、八王子市恩方とも言われていますが、相原町中相原地区との見方があります。
童謡に歌われた日本の原風景を探すのが難しい!
現在は大人も子供も忙しく「夕焼け小焼け」を見る時間もない。
地域によっては、慌ただしい日常に、また、時間の制約上、また環境によって現在の住まいの高層ビルが空を隠し、夕焼小焼を観賞したくても鑑賞出来ない、自然に触れる事が中々難しい時代になってしまいましたね。
だからこそ、たまには立ち止まって、童謡の世界と自然を体感して欲しいです。
定刻に夕焼け小焼けのチャイムを流すのはなぜ?
多くの血町村で、夕方になると決まった時刻にチャイムを流すのは、街中のスピーカは防災行政無線の役割を持っています。
スピーカの故障や不具合が発生すると、住民にとって必要な情報が伝わらず、危険を回避することができません。
そのためにが正常に作動することを点検するためです。
ただし、高い建物や地形などの位置関係、住宅の遮音性の向上によって聞き取りにくい場所があります。
すべての住民に音声で必要な情報をお伝えする事は限界があるそうです。
まとめ
第三日暮里小学校へ転勤した後の大正8年(1919年)に作詞した作品です。
荒川区立第三日暮里小学校には、この童謡にちなんだ記念塔が、第二日暮里小学校には記念碑が建てられています。
小焼けとは、夕焼けほど鮮やかではないけど、夕焼けが終わって太陽が沈んでから暫くすると、太陽に照らされた空がもう一度赤くなる現象。
作曲した草川信氏と、作詞家童謡詩人中村雨紅の共通点は、生家の近くにお寺があったことです。
多くの市町村で、夕方になると決まった時刻に、夕焼け小焼けのチャイムを流すのは、街中のスピーカーが防災行政無線の役割を持っているからです。
素晴らしい童謡を、これからも歌い継いで欲しいと願っています。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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