江戸時代の身分制度は士農工商と順位付けされています。
身分が順位付けされていただけに、社会の機会の平等や成果を上げる機会の均等は失われます。
メリットとしては安定します。
江戸時代の身分制度のメリットは、仕事に専念出来る。
目的を持って取り組める。
デメリットとしては、自分の意志で、職業選択が出来ない。
才能が有ってもその才能を開花出来ない。
親の位を引き継いだり、職業を引き継ぐ事により安定します。
安定はしますが競争も制限され、停滞して前進することは難しいと思います。
競争社会と違って、安定する反面に社会全体が後退していきます。
社会全体としては、メリットよりデメリットのほうが大きいです。
江戸時代の身分制度は!身分と職業が結びつくメリットは?
江戸時代の身分制度は競争がないために安定します。
メリットといえばそれだけです。
身分が低ければ才能のある者でも、その才能を活かす事ができず矛盾を感じるのが江戸時代です。
デメリットのほうが大きい時代が江戸時代の特徴です。
身分の固定された、平安時代や江戸時代は親の位や職業を継ぐことで安定はします。
反面に弊害として競争がないだけに後退していきます。
戦国時代の後半から徳川幕府の徳川初期は、戦争のない社会を多くの人が望んだせいで平和な社会になりました。
江戸時代の身分制度!メリットとデメリット?
身分が高ければ能力以上の職務を任されもし失敗すれば、多くの人が損失を受けます。
社会の安定だけで見ればそれがメリットです。
しかし、才能のある者でも身分が低ければその才能を開花させることも出来ませんので、才能のある人にとってはそれがデメリットですね。
身分制度と身分別の人口割合
身分制度は、士農工商の4つに分かれています。
士は武士のことです。農は百姓、つまり農民です。
工商は、職人などの工業者、商は商人です。
武士は全体の7%、百姓は全体の84%の人口を占めていたので、数字が示す通り農民が圧倒的に多かったことがわかります。
江戸時代の身分制度!武士の特権?
調べによると、武士には切捨御免(きりすてごめん)という特権が記されています。
これは農民たちが武士に逆らったり、無礼な態度をとったりしたとき殺してもいいという特権です。
だからといって殺しまくっていたわけではないそうです。
しかし、刀を持たない農民は武士を怖がっていたのではないでしょうか。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い、1600年に徳川家康は、会津の上杉景勝を攻める兵を挙げて東へ。
家康を攻める兵も東へ向かいます、それがわかった家康は軍を西に反転します。
それから関ヶ原で家康の率いていた軍と三成が率いた軍が戦うことになります。
これが関ヶ原の戦いと言われています。
江戸時代の身分制度!江戸幕府
1,603年に朝廷から徳川家康は、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きました。
江戸はご存じの通り現在の東京になります。
このときから江戸時代となりました。
江戸時代は農村は検地により、収穫高がわかるので農民はそれに基づく年貢を納めていました。
今でいう税金ということですね。
農民は自分の土地を持った本百姓、土地を持っていない水呑百姓(みずのみひゃくしょう)という農民にも2種類があったようです。
江戸時代の職業は?
当時は、職業は自分で自由に選ぶことはできなかった。
人の移動は厳しく制限があり、各地に関所があり、通行手形がないと通ることができません。
職業も自分の意志では選べない不自由な時代に、当時の人たちは不満も抱えていのか、それともそれが江戸時代の常識と捉えていたのでしょう。
そうでないと不満が出てしまいますよね。
江戸時代の女性の地位
江戸時代は女性の地位は比較的高いものだったと言われています。
財産の分配があるような時でも男性と対等でした。
結婚する時には嫁入り婚が普通だったのですが、結婚してからも生家の氏姓で呼ばれていました。
江戸時代の身分制度!武士の収入は?
武士はどのようにして収入を得ていたのかは気になるところですが、本来だと自分の領地からの収入で生活していたと言われています。
よく時代劇にもありますが、戦などで手柄をたてると褒美をもらって新しい領地を得て収入を増やしていました。
江戸時代の身分制度!江戸時代の御家人
御家人は領地を持っていませんでした。幕府や藩からの給料で生活をしていました。
給料の多くは米で支払われていて、自分たち家族が食べる分だけはとっておき、残った米は現金に換金していました。
江戸時代の文化
元禄文化
元禄は1,688年から1,704年の16年間で、江戸幕府ができてから100年くらいの元号になります。
これを元禄文化と呼ばれています。
このころは商業が盛んになっていて庶民たちの生活も潤ってくるといろいろ娯楽が発達し始めました。
芝居小屋というところでは、歌舞伎とかも人気になっていたようです。
化政文化
元禄から100年くらい後の文化や文政という元号の1,704年~1,804年には職人とか商人も多くなっていきます。
そこから化政文化と呼ばれるようになりました。
このころから寄席もできたので落語とか曲芸とかも楽しまれるようになります。
俳句も人気になって、有名なところでは小林一茶がいました。
小林一茶や松尾芭蕉、与謝蕪村も江戸時代の三代俳人では有名ですね。
江戸時代の身分制度!武士の食卓と庶民の食卓とは
武士の食事は、下級武士の人たちは、庶民の食事とほとんど変りなく白飯が主食でした。
おかずに魚を食べていたのは、一カ月に3回くらいだったそうで以外に質素なものでした。
江戸時代から1日に3回の食事をする現在の習慣が定着しているようです。
庶民の食べる食事は、お米を炊いたものと、味噌汁と漬物というシンプルなものでした。
漬物の種類は、現在でもよくある沢庵とか、梅干しとか糠みそ漬けなど。
少しお金持ちの家になると副菜で煮豆などがついていたそうです。
江戸時代後期の庶民の食卓!
江戸時代後期になると、米飯、味噌汁、香の物と出てそこにおかずが2品くらいであったと言われています。
庶民は白飯が主食で、多い時には1日に5合近くも食べていたこともあったそうで、現代では考えられない量でした。
オヒツを使い、1日分のご飯を保存して、保温はできていないので冷えたご飯を食べていたようです。
夕食には、ヒジキの煮物も出されていました。
江戸の初期には、京都や大阪などの関西方面から、醤油が運ばれていました。
醤油の原型は飛鳥時代の魚や肉を塩漬けにした「魚醤」や「肉醤」、それと野菜を塩漬けにした「草醤】、穀物を塩漬けにした「穀醤」で、これが醤油の原型と言われています。
江戸時代後期の庶民の食卓の醤油!
江戸初期までは調味料として、味付けに使っていたのは主に塩と味噌とお酢でした。
この時代以降になってから、煮物料理に使われるみりんとか砂糖とか鰹節がでてきます。
本格的にしょう油が製造されるようになったのは江戸時代で「関ヶ原の戦い」の後。
1,726年には、堺や大阪から約76%の醤油が下り醤油としてまかなわれていました。
千葉県はじめ関東で製造された醤油の品質が向上して、125万樽のうち下り醤油は2万樽までに減っていきます。
江戸時代は陸路より水路が発達していて、江戸川や利根川を利用して早く江戸に届けることにできそれと同時に、江戸の庶民の口に合う濃口醤油が製造されます。
和食の代表的な天ぷらや寿司、蒲鉾などが完成して醤油は食文化に欠かせない調味料になりました。
江戸の庶民は労働者が多かったため、味の濃いものが好きでした。
そういう理由で濃口醤油が、関東では醤油の定番で現在まで浸透しています。
近畿地方は薄口醤油が普及していきます。
江戸時代後期の庶民の食卓の醤油!
醤油が初めて海外に渡るのは鎖国政策下の出島貿易で、オランダ船によりアジアはじめヨーロッパに限られたものですが輸出されます。
その後、明治時代の海外移民と日清日露戦争の後は満洲国の海外生活者のために醤油の需要もたかまっていきました。
現在のプラスチック容器以前は、ガラス瓶に入った醤油が定番ですがこれは大正時代以降です。
なお現在では醤油はヨーロッパはじめ世界各国100ヶ国で需要のある調味料となっています。
拙い文章を詠んで頂きありがとうございました。
宜しければこの記事も読んで下さい。
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