平安時代の旅の目的は!旅の移動手段はどうしていたの?

情報
※このブログではプロモーション広告を利用しています。
※ブログではプロモーション広告を利用しています。

 

 

現在では一般庶民も移動の自由が平等にしかも、公に認められているうえに、交通手段も陸路、空路、など発達してない平安時代の旅。

 

交通手段もなく言うまでもなく、リスクを伴う常に危険と隣り合わせが平安時代の旅の実情です。

 

ですので、旅は現在のレジャー、観光、保養とちがい、命がけのために、心の根底には篤い信仰心がありました。

僧侶であれば、その道の事を伝えるための布教活動、それと僧侶自身の修行が目的で、僧侶以外の一般人は神社、仏閣に参詣する目的で旅をしました。

 

それに西国33箇所巡りで観世音菩薩を本尊(尊敬する対象)として33箇所の神社で観音様を供養するのが目的。

 

地理的には兵庫県、和歌山県、奈良県、京都府、岐阜県の1付4県にある33の寺院を参詣していました。

 

それに、時間を経てなおかつ現在までも四国八十八箇所めぐりが盛んになりました。

 

しかし、それは一部の人で、殆どの人が、生まれた土地で生涯を終えました。

 

現代のレジャーや慰安旅行、観光旅行とは、全く目的が違います。

平安時代から鎌倉時代の旅は、和歌山県の熊野古道で有名な熊野詣が主でした。

 

 

紀伊半島の全体の距離は1000キロメートルあります。

しかし、いくら平安時代の歩き慣れた人でも、全てを歩いた訳ではありません。

 

 

熊野詣の距離ですので、出発地点その当時の都(京都)から本宮大社までと思われます。

 

なぜそのように考えるかというと、東海道53次の東京から大阪までの距離が500キロメートル。

 

それでもすご~く長~いので、その2倍の距離の1000キロメートルを歩くことはなかった筈です。

熊野古道の全ルートではなく現在の熊野古道の紹介でも、限られた1部の紹介がほとんどです。

 

 

① 観光関連会社や旅行代理店は現実に歩いてない。

② 各機関自治体は担当エリア外の事が説明、紹介文を書けない。

③ 様々な情報があるが、特化したサイトがない。

 

 

熊野古道のごく一部を歩いても熊野古道を歩いたことに変わりはありませんよね。

平安時代の旅人はその当時の都(京都)から本宮大社までと判断出来ますね。

 

 

平安時代の旅は僧侶は修行と布教活動が目的で、一般人は神社、仏閣を参詣することが目的です。

時代とともに旅の行き先が変わって室町時代は三重県の伊勢市にある伊勢神宮の伊勢参りに変わりました。

 

 

それに西国33箇所巡りで観世音菩薩を本尊(尊敬する対象)として33箇所の神社で観音様を供養するのが目的。

 

地理的には兵庫県、和歌山県、奈良県、京都府、岐阜県の1付4県にある33の寺院を参詣していました。

その後現在の四国八十八箇所めぐりが盛んになりました。

 

 

平安時代の旅の目的は!旅の移動手段はどうしていたの?

 

リスクを伴う常に危険と隣り合わせが平安時代の旅の実情です。

 

貴族や皇族が信仰心のために参詣の旅が行われるようになり、宿泊施設としては、荘園や寺院が宿泊地として提供され信者や参詣者に、提供され宿坊と呼ばれます。

 

 

貴族でも宿泊施設のない場所では、現在のキャンプで使うようなテント(庵)いおを張っていました。その他は仮屋という粗末な小屋に数日滞在していたそうです。

 

僧侶であれば、その道の事を伝える布教活動のため、それと僧侶自身の修行が目的で、僧侶以外の一般人は神社、仏閣に参詣する動機や目的で旅をしました。

 

平安時代は交通網がないので徒歩が当たり前でした。

 

 

 

平安時代の旅の宿や食事はどうしていたでしょうか?

 

その当時も駅場や、伝馬の制度があり、宿場などで握り飯などを用意して次の中継地までいく、宿場の中には、宿屋、飯屋があります。

 

それに携帯保存食(干し魚、栗、米)を事前に準備して旅をしていました。

 

ただし、駅屋があったのは関東地方ではなく、京に近い近辺だけのことで、鎌倉時代になって街道は整備されて、それにともなって宿場も出来ていきますが、平安時代はそれほど街道の整備はありません。

 

現在みたいに一人旅や家族旅行など、怖くてできるような社会状況、環境ではないので、武装した人助けを受けたり、或いは集団での旅でなければ、海賊や山賊、追いはぎなどにあって身の安全の保証がない、そういう危険な時代です。

 

 

平安時代の旅の宿と食事は?

 

平安時代の宿屋は施設としての宿屋はないので、寺院や民家を利用できなければ、野宿でした。

経済力のない庶民は野宿は当たり前です。

 

食事にしても自分で調達するしかなく、民家で食べさせて貰っていました。

 

なお食事のでない宿代(現在の素泊まり)だけで自炊は当然の木賃宿は平安時代の末に伊勢神宮や東海道にできて鎌倉時代に発展します。

 

 

平安時代の旅の服装はどんな服装?

 

平安時代の旅の公家や武家の女性の服装は壺装束で、身丈の長い裾を引き上げて着た姿が壺のように見えることから壺装束と呼ばれます。

 

帯を胸のあたりにかけてあしは草履を履く。

麻でつくられた布を垂れた姿。

 

市女笠を深く被る姿。

履物は緒太という草履(ぞうり)或いは草鞋(わらじ)。

 

手には菅笠(びろうの樹の葉)の笠を持ちます。

この服装は女性の旅や外出着で特別に厳しい決まりごとはなかった。

 

 

その後、江戸時代になると籠屋や馬も広く使われていたのですが、足代が高いことから長距離のるのは、大名やその他の一部の役人が使うだけで一般人までは浸透していませんでした。

 

平安時代と違って、現在の旅の目的は一人で出かける一人旅や家族旅行など、修行とは程遠く気分転換にレジャーが目的で、移動手段も選択肢が一杯あります。

 

レンタカーや自家用車などの車移動、在来線や新幹線の鉄道、飛行機を利用した空路、目的や地理によって移動手段も選択肢が数多くあります。

 

それに現在の旅行は、観光が主でその他、調査や保養のため、別天地で英気を養うための目的があるでしょう。

 

 

平安時代の旅と現代の旅の違い!

 

しかし、千年前の平安時代の旅は命がけの旅でそれも、僧侶は布教活動や修行が目的で、僧侶以外の一般庶民は神社、仏閣に参詣する目的で旅をしました。

常に身の危険と隣合わせのために、武装した人の助けを受けたり、或いはグループでの旅でなければ、海賊や山賊、追いはぎなどにあって身の安全の保証がないそういう危険な時代の旅です

 

現代の旅の目的はレジャーがほとんどのや家族旅行などで、新幹線や飛行機、或いはレンタカーや自家用車などの旅行です。

 

平安時代の旅は常に危険と隣り合わせ命がけ、宿泊施設や食料事情それに運輸全てにおいて、余程な覚悟を持っての旅であったことがわかりますよね。

 

それと、千年も前に旅をする人は一部の人で、殆どの人が、生まれた土地で生涯を終えました。

 

 

まとめ

リスクを伴う常に危険と隣り合わせが平安時代の旅

僧侶であれば、その道の事を伝えるための布教活動、僧侶自身の修行が目的で、僧侶以外の一般人は神社、仏閣に参詣する目的の旅

貴族でも宿泊施設のない場所では、現在のキャンプで使うようなテント(庵)いおを張っていた。

その他は仮屋という粗末な小屋に数日滞在していた。

宿泊施設や食料事情それに運輸全てにおいて、余程な覚悟を持っての旅であった

 

 

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

 

宜しければこの記事も読んで下さい。

平安時代の服装は!男性貴族や庶民や子供はどんな服着ていたの?
男性の服装は種類があります。 女性の正装は十二単だけですが、男性は衣冠、束帯、直衣、狩衣とあります。 この4種類は正装と普段着に分けることができます。 頭に載せる冠と烏帽子で正装か普段着か見分けます。 冠は正装、烏帽子は普段着です。 現代と違って男性が冠や烏帽子を脱いだ姿を人前で晒すことは、当時は非常識なことでした。

平安時代の出来事!主な人物と政治や文化の特徴は?
平安時代の印象は貴族の華やかで雅な印象をイメージしますよね。平安時代の政治や文化について、特徴や主な人物について述べてみます。平安京(現在の京都府)を作ったのは桓武天皇(かんむてんのう)です。現在の京都府ができたのは、江戸時代の終わり(18...

コメント