北原白秋の有名な童謡や詩集について?歌風はどんな印象なのか!

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童謡や詩集でなじみの北原白秋。

 

本名は北原隆吉(きたはら りゅうきち)で、福岡県柳川市に1885年(明治18年1月25日)に造り酒屋の長男として裕福な家庭で幼少期を送っています。

 

1942年(昭和17年11月2日)没

 

この記事では、そんな白秋の波乱万丈の生涯を振り返りながら、その作品の魅力を紹介していきます。

 

 

北原白秋の有名な童謡は?

明治時代から、昭和にかけて活躍した童謡作家、詩人、歌人です。

 

「ゆりかごのうた」、「この道」、「あめふり」、「雨」、「城ヶ島の雨」、「あめんぼの歌」、「ちんちん千鳥」、「赤い鳥小鳥」、「待ちぼうけ」、「すかんぽの咲く頃」、「里こころ」、「かえろかえろと」、「あわて床屋」、「りすりすこりす」、「ペチカ」、「ふぶきのばん」、「さすらいの唄」、「ひがんばな」、「ごんしゃん」、「かやの木山、「砂山」、「からたちの花」、「落葉松」。

 

一度は音楽の教科書で、見たり聞いたりした事のある童謡や唱歌を数多く残した有名な人物ですね。

 

北原白秋の有名な童謡・唱歌
世界の民謡・童謡

 

 

また白秋は、童謡や唱歌の作者だけでなく、近代日本の代表的なロマン派詩人です。

 

 

白秋という名前は雅号で、もともと中国の五行思想からできた言葉で、春を青春、夏を朱夏、秋を白秋、冬を玄冬と呼びます。

 

五行思想 - Wikipedia

 

北原白秋の白秋は秋で人生の実りを意味しています。

 

後世に数多くの童謡や詩集を残した偉人に相応しい名前ですね。

 

童謡作家、詩人、歌人、ロマン派詩人で早稲田大学英文科卒業です。

 

詩を作ることに専念して、初めての詩集「邪宗門」を発表、それから間もなく2年あとには、「思ひ出」を発表して名実ともに詩壇で有名に。

 

有名なところでは「桐の花」などの詩歌集もあります。

教科書に載っている歌人の作品を読んでみよう~北原白秋『桐の花』編
「教科書に載っている歌人の作品を読んでみよう」シリーズ、今回取り上げる作品は、北原白秋の『桐の花』です。白秋は歌人としてだけではなく、ロマン派詩人として、童謡や唱歌の作者としても有名です。白秋の波乱万丈の人生を振り返りつつ、「国民詩人」とも...

 

 

「桐の花」に掲載された作品は、石川啄木の同時期の作品の「素直さ」や、若山牧水の「若さ」とは違って、芸術性の高さが印象に残ります。

 

「片恋」(詩集)「東京景物詩乃其他」より

「落葉松」(詩集)「水墨集」より

「糸車」、「曼珠沙華」(詩集)「思い出より」

「薔薇より」(詩集)「白金の独楽」より

 

その後、童謡も発表します。

様々な分野で活躍して遺憾なく才能を発揮しています。

 

 

北原白秋の履歴は!

北原白秋は文学で生きていく過程で、貧困や異性問題、家族関係など多くの困難に見舞われます。

 

しかし、どんな困難に見舞われようと、それに動じることなく文学活動に精力的に取り組んで、いろいろなジャンルで名作を残します。

 

生涯を創作活動だけで終えた正に天才です。

そんな白秋の波乱万丈の生涯を振り返りながら、その作品の魅力を紹介していきたいと思います。

 

 

1899年 14歳の時、福岡の名門中学の伝習館中学へ入学しますが、文学に熱心なあまり、学校の勉強を疎かにして落第。

 

1901年 16歳 福岡の柳河(柳川)は、水の都その水で仕込まれた酒や、近海で取れた海産物を取り扱う問屋、隆盛を極めたその問屋が火事で実家が全焼、破産してしまいます。

 

このころ「北原白秋」の雅号を名乗ります。

 

1904年 19歳 長詩「隣家の黙想」が雑誌に掲載。中学を退学して上京。

 

早稲田大学英文科予科に入学。

1905年 20歳 「早稲田学報」で懸賞1等に入選。

新進気鋭の詩人として注目される。

 

1906年 21歳与謝野鉄幹の新詩社に参加。文芸誌「明星」で詩を連載。

1909年 24歳 与謝野鉄幹、晶子、森鴎外が発行した雑誌「スバル」の参加。

 

処女詩集「邪宗門」を発表。

1910年 25歳 「屋上庭園」2号に掲載されて詩が官能過ぎて発行禁止。

 

1912年 28歳 家族を東京に呼び寄せる。

1914年 29歳 妻俊子が肺結核のため父島に移住、帰京するも両親との不仲で離婚。

 

1915年 30歳 弟の鉄雄とオランダ書房を創立。

1916年 31歳 二度目の結婚、相手は江口章子。

 

1917年 32歳 オランダ書房を手放し弟とアルス出版社を創立。

1918年 33歳 鈴木三重吉の勧めで雑誌「赤い鳥」にて童謡を担当。

 

1919年 34歳 小説「葛飾文章」童謡「トンボの眼鏡」歌謡集。「白秋小唄集」を発行。

経済的に安定。家を新築「みみずくの家」と命名。

 

1920年 35歳 住宅の隣に山荘を新築。

新築祝いが派手すぎて弟達の反感をかう。

 

二度目の妻 章子とも離婚。

 

1921年 36歳 三度目の結婚 妻 菊子 歌集「雀の卵」を発表。

1923年 38歳 関東大震災でアルス社、山荘が被災。

 

1924年 39歳 宗教家・田中智学の勧めで静岡県三保の寺社を旅して、長歌1首・短歌173首を創作。

 

短歌雑誌を創刊。

1927年 42歳 アルス社と興文社の確執で菊池寛と対立。

1933年 48歳 鈴木三重吉との断交で「赤い鳥」での執筆を終える。

 

1935年 50歳 多摩短歌会を結成、歌誌「多摩」を創刊。

詩歌への情熱は衰えることなく、思い描いた理想は色褪せる事なく継続していきます。

 

このころ朝鮮を旅行。

1937年 52歳 糖尿病と腎臓病の合併症で病魔が襲う。

 

入院したが眼底出血でほとんどの視力を失う。

1938年 53歳 ドイツ・ナチス党の青年組織・ヒトラーユーゲントの来日に際し「万歳ヒトラーユーゲント」を作詞。

 

1941年 56歳 数十年振りに福岡、熊本へ帰郷。

宮崎奈良へも旅行。

 

1942年 57歳 糖尿病、腎臓病の悪化。

 

日中戦争(1931年~1945年)が勃発、闘病中の白秋「国民詩人」はどうしても抗えない運命で、国家主義に接近白秋は戦争の終息を見ることなく1942年没します。

 

 

北原白秋の少年時代!

中学は文学に熱中するあまり落第。

中学時代から文才は見せ始めていますが、両親にとっては、扱いにくい少年。

 

文学には熱心で1904年 河合翠明の目に留まり、あこがれていた雑誌「文庫」に詩が掲載される。

 

感動した白秋は両親に無断で中学を中退して上京。

早稲田大学英文科予科に入学、本格的に詩人を目指す。

 

 

北原白秋著名な作家たちと交流を深め文壇で地位を築く!

1906年 21歳与謝野鉄幹の新詩社に参加。

文芸誌「明星」で詩を連載。

 

1909年 24歳 与謝野鉄幹、晶子、森鴎外が発行した雑誌「スバル」の参加。

処女詩集「邪宗門」を発表。

 

文芸誌「明星」にて作品を発表。

「文庫」、「明星」共に白秋が少年時代から愛読していた雑誌です。

 

この頃は、思い通りに順風満帆な日々を送っています。

与謝野鉄幹、晶子、石川啄木、木下杢太郎、著名な作家と交流して、文壇での地位を確立。

 

鉄幹、杢太郎とは九州旅行をして白秋の実家に泊めた程の仲の良い仲間。

中学を落第した白秋が著名な作家を連れて帰省するのですから、さぞ両親は驚いたはず。

 

新誌社を去った後も鉄幹らとの交流は続き、鉄幹、晶子の文芸誌「スバル」にも投稿しています。

杢太郎とは詩誌「屋上庭園」を一緒に創刊しています。

 

25歳頃までの白秋は、業界での人間関係も詩人としてのキャリアも全て上手く行っています。

1912年に名家育ちで世間知らずの坊っちゃん白秋は、隣に住む別居中の俊子と言う女性と恋に堕ちます。

 

当時、俊子の夫に訴えられて投獄。

弟たちの力によって和解に至りますが、今までに築いた詩人としての地位は、脆くも崩れ落ちます。

 

白秋の異性問題は、異性にだらしなかった石川啄木の影響ともいわれています。

仮にそうであれば、白秋は人脈で文壇での地位を築いたと同時に、人脈によって地位を失う皮肉な運命の人ですね。

 

結婚して1年目で俊子と離婚

東京に呼び寄せていた弟と父が事業に失敗して実家に帰る。

 

妻や家族の離散にしても、白秋に経済力がなくなったことも大いに影響していると思います。

 

二人目の妻・章子と再婚

弟の鉄雄とアルスを創立。

 

新しい仕事はあるものの執筆業は上手くいかず、経済的には困窮。

しかし、雑誌「赤い鳥」で童謡作家として、文壇での力が回復します。

 

「赤い鳥」で掲載されたものではない童謡でも、

 

「待ちぼうけ」、「雨降り」、「砂山」、「ゆりかご」の歌なども残しています。

 

 

北原白秋の有名な歌(童謡)と歌風について!

白秋の歌は小学校の頃、音楽の時間に一度は聞いたことのある歌ですね。

 

童謡では、ゆりかごのうた、砂山、ペチカ、城ヶ島の雨、雨降り、からたちの花、この道、待ちぼうけ、あわて床屋、かやの木山、など数多くの童謡も発表しています。

 

なんとなく温かみのある歌で、聞いていて優しい幸せな気持ちになれる歌詞を数多く書いています。

歌風としては、リズムを大切に意識して創作した歌が多く、声に出して読むとリズミカルで作品の中に「色」が出てきます。

 

色彩感覚の秀いでた歌で歌の情景が浮かび上がってきます。

しかし、北原白秋は童謡から感じる優しい印象とは違って、人生においての生涯は波乱万丈の人生です。

 

童謡や詩、短歌以外にも「ちゃっきり節」などの民謡にも傑作を残している。

 

 

北原白秋の有名な俳句!

焚き火のそばへ射ってきた鴨

つくしが出たなと摘んでゐれば子も摘んで

 

紫陽花に馬が顔出す馬屋の口

灯を消して雨月の黄色菊我も嗅がむ

 

童子々々にカラタチの花が咲いたよ

初夏だ初夏だ郵便夫にビール飲ませた

 

 

まとめ

北原白秋は少年時代から、一躍有名になって、その後不祥事で名声を失って経済的に困窮した時も、晩年病気に侵されても筆を執りつずけた人です。

少々、人に迷惑をかけても、一つのことに専念する姿勢は明らかに天才です。

世間体、常識的には、社会から逸脱したところもありますが、決断力の速さは現在の私達にも、参考になるところが大いにあると思います。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。

 

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石川啄木は岩手県南岩手郡日戸村、現在の盛岡市日戸出身の歌人、詩人です。 啄木は雅号で、本名は一(はじめ)、1886年2月20日誕生。 詩人、歌人として秀でた才能を発揮しながらも、1912年4月13日26歳の短い生涯を終えました。 北原白秋が詩を連載した、新詩社(出版社)の文芸誌【明星】で頭角を表します。 初めての歌集「あこがれ」を19歳で発表します。

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