宮沢賢治の優しい性格といわれるのには、小学校時代営みのエピソードにあります。
友達思いの賢治は、小学生時代に赤いシャツを着た同級生が、からかわれているのを見て、「俺も赤シャツを着て来るからいじめるなら俺をいじめてくれ」と言って庇った。
馬車に引かれて出血した遊び仲間を指を吸って止血しようとした。
水を一杯にした茶碗を持った体罰の児童が、廊下に辛そうにして立たされているのを見て、その水をのんであげた。
このような過去のエピソードから優しい人と思われている所以でしょう。
真偽の程はわかりませんが、宮沢賢治の父親と弟が誇らしく思っているせいで、誇張気味に周囲に話していたからといわれています。
幼少期に凶作や飢饉を経験して育ちます。その影響で農民の凶作や飢饉にも屈しない力強い生き方を目の当たりにしているせいで、その後の作風にも、この経験が影響していると思います。
この記事では宮澤賢治の作品、特徴を紹介します。
宮沢賢治の優しさが伝わるエピソード!
小学生の頃のエピソードからも判るとおり、おとなになった賢治も、周囲の人への気遣いや動物、自然の思いやりと敬意は失われていません。
地元の子供達への親しみ
賢治は、故郷の岩手で教師をして働いていた時期がありました。子供たちと親しみ彼らと遊んだり、自然の中でともに過ごす時、自然や人間の心に対する愛情を伝える事を大切にしていました。
自然や動物への思いやり
自然と動物にも深い愛情を抱いていましった。彼は樹木や花、小さな虫たちにも優しく接し彼らの生態や営みに対する観察や理解を大切にしていました。
その思いやりの心が賢治の作品にも反映されています。
これらのエピソードは、宮沢賢治の持つ優しさや思いやりを物語っています。彼の作品には人間愛や自然への敬意が溢れており、多くの人に感動と影響を与え続けています。
宮沢賢治はどんな人なの?
宮沢賢治は1896年8(明治29年)8月27日稗貫郡花巻川口町、現在の花巻市豊沢町で宮沢政次郎とイチの長男として誕生します。
小学生の時同じクラスに、修治、銀治、という友人がいたため、賢治を含めて「三治」と呼ばれていた。この「三治」は特に成績が良くて優秀学級として校内中に評判となっていた。
小学5年生の時、父親に将来何になりたいか聞かれた時に、「むやみに偉くならなくて良い」と答え家族を驚かせた。
裕福な家庭に生まれたが、違和感をもっていた。家業を引き継ぎたくなかったため童話作家になるために上京、しかし、妹トシの病気を機に帰郷して花巻農学校の教師となり生徒を指導します。
童話作家でありながら農業に精通しています。
1933年(昭和8年)9月21日、37歳の若さで生涯を終えます。
賢治は子供の頃から菜食主義で法華経を信仰してから5年間もの間菜食生活で質素な生活を続けています。
母親や弟が説得しても「生き物の命を取るくらいなら俺は死んだほうが良い」、「これからはそんな事をしてくれるな、といって拒んだというエピソードがあります。
幼少期に凶作や飢饉を経験して育ちます。その影響で農民の凶作や飢饉にも屈しない力強い生き方を目の当たりにしているせいで、その後の作風にも、この経験が影響していると思います。
中学の時に法華経の内容に感銘を受け帰依します。家族も改宗するように説得したが、厳格な父親は応じなかった。
妹トシはキリスト教にも関心を持っていたが、賢治が強引に妙法蓮華経に帰依させた。
宮沢賢治は何が凄いのか?
宮沢賢治といえば、詩人童話作家としての印象がありますが、科学や宇宙に関心をもち、賢治が得たり考えたりした知識を、研究論文などの形式にとらわれず「心象スケッチ」や「童話」などの文学という形で表現した。
宮沢賢治が有名になったきっかけは!
宮沢賢治は大正13年(1924年)に心象スケッチ「春と修羅」と「注文の多い料理店」だけの刊行だけで無名の状態。
没後昭和8年(1933)宮沢賢治全集などが発行されてから評価がたかまっていきます。
宮沢賢治の本の特徴は?
宮沢賢治は「童話」が有名で、基本的に短編小説が多いのが特徴。
童話と言っても子供向けのだけでなく幅広く大人までの作品もあります。
「銀河鉄道の夜」も農学校の教諭をして働いていたときの創作。
まとめ
周囲の人への気遣いや動物、自然の思いやりと敬意を持っています
修治、銀治、という友人がいたため、賢治を含めて「三治」と呼ばれていた。この「三治」は特に成績が良くて優秀学級として校内中に評判となっていた。
農民の凶作や飢饉にも屈しない力強い生き方を体験として学ぶ。
没後昭和8年(1933)宮沢賢治全集などが発行されてから評価がたかまった。
童話と言っても子供向けでなく幅広く大人までの作品。
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