宮沢賢治の雨ニモマケズ風ニモマケズ!詩に込めた思いはどんな思いか?

情報
※このブログではプロモーション広告を利用しています。
※ブログではプロモーション広告を利用しています。

 

 

宮沢賢治は岩手県花巻市出身で、岩手を舞台にした作品を数多く残し日本文学を語る上で欠かせない作家です。

 

 

宮沢賢治といえば、「雨ニモマケズ風ニモマケズ」

 

人に読まれることなど想定せず、賢治の純粋な思いを綴った文章で、商業的かけ引きがない、だからこそ人の心を打つのだと思います。

 

今も多くの愛好家に親しまれ、人を励まし、生きる勇気を与え、大変な思いをしている時に、いつも心に寄り添ってくれる詩です。

 

 

賢治の死後、日本文学に大きな影響を与え、尚現在まで作品は絵本や映画となっで多くの読者を魅了しています。

 

 

数多くの詩の中からこの記事では「雨ニモマケズ風二モマケズ」の詩に込めた思いを紹介します。

 

 

宮沢賢治の「雨ニモマケズ風ニモマケズ」詩に込めた思いは?

 

宮沢賢治といえば、「雨ニモマケズ風ニモマケズ」

 

今も多くの愛好家に親しまれ、人を励まし、生きる勇気を与え、大変な思いをしている時に、いつも心に寄り添ってくれる詩です。

 

人生の応援歌ですね。

 

国民作家として長く指示された詩が再び注目を集めたのは、2011年平成23年3月の東日本大震災で多くの犠牲者を出したこの大震災の後、再び注目をあつめています。

 

アメリカの追悼式典でこの「雨ニモマケズ・・・」が英語訳で朗読され世界各国で報道され感銘を与えた。

 

この詩を朗読したのは、駐米大使の藤崎一郎氏。

 

式典でカート・キャンベル国務次官補が「アメリカは日本のためにあらゆる協力を惜しまない】と挨拶した言葉の返しに復興に挑む日本人の心としてこの詩を引用して返歌としました。

 

 

宮沢賢治の生涯も、さまざまな自然災害に翻弄された東北の歴史と重なって、共通する面が大いにあります。

 

宮沢賢治が誕生した1896年(明治29年)の4日後には陸羽地震が発生。1933年(昭和8年)には昭和の三陸地震と大津波が発生。東北地方は壊滅的な被害を受けます。

 

誕生した年と生涯を終えた年に地震が発生。

 

毎年のように旱魃(カンバツ)、冷夏、豪雨等で飢饉を体験東北の悲惨と向き合う人生。晩年は稲作指導に奔走してそれが原因で健康を害し病に伏す。

 

宮沢賢治はそういう意味で東北復興の象徴と言える偉大な人です。

この【雨ニモマケズ風ニモマケズ・・・】は賢治自身の指針であり目標であった詩ですね。

 

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪にも夏の暑さニモマケズ

丈夫なカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシズカニワラッテヰル。

一日二玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウ二入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋二ヰテ

東二病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西二ツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南二死ニソウナ人アレバ行ッテコワガラナクテイイトイヒ

北二ケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナ二デクノボートヨバレホメラレモサレズ

サウイウモノニワタシハナリタイ

 

 

途中まで読むと到底私はこのように素晴らしい人間にはなれない。

強く体は丈夫で、欲は持たず、何事にも負けないイツモ静かに笑っている?

 

 

しかし、この詩を最後まで読んでいくと、この詩は宮澤賢治自身の願いを詩として詠んでいる事が判る。

 

「ソウイウモノ二ワタシワナリタイ」と書かれている事からも判るように、詩は宮沢賢治の願いです。

 

「雨ニモマケズ風ニモマケズ、、、」この詩は未発表のものです。

メモに書かれたもので、死後に発見された手帳の走り書きです。

 

だから自分への戒めと願いが素直に表現されている。

そういうありのまま普段感じている願いを素直に書いているから、人の心を打つのです。

 

盛岡農林高等学校を卒業した年に徴兵検査を受けているが、第二乙種の検査で徴兵免除となる。

君は心臓が悪いようだと検査員から言われた。

 

農業を自ら実践する上でも田畑で農民の相談にのる上でも頑健な体は必要。

それがない辛さや悲しさがこの詩「雨ニモマケズ・・・」を書いた。

 

決してスーパースターではない私達と同じ生身の弱い人間であることを詠んだ詩。

 

 

                 

 

雨にもマケズニモ風ニモマケズ「カタカナ」で書かれた理由は?

 

現在ではカタカナは外来語を書く時に使われますが、戦前の日本では、カタカナを習った後に平がなを習っていました。

 

賢治がこの作品を書いたのは1931年(昭和6年)でカタカナで書くことが当たり前の時代だから、平がなではなくカタカナで書いたものです。

 

 

宮沢賢治の代表的な作品!

 

「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」「風の又三郎」「ポラーノの広場」「どんぐりと山猫」「宮沢賢治詩集」「セロ弾きのゴーシュ」「イーハートーブ農学校の春」「蛙のゴム靴」「よだかの星」

 

宮沢賢治の作品は短編作品が多く、大人から子供まで楽しめるのが魅力です。

子供の頃読んだ作品もまた読み直してみてください新しい発見があると思います。

 

 

 

宮沢賢治の最後の作品は?

 

宮沢賢治の最後の作品、「風の又三郎」は田舎の学校生活を描きながら、嵐を擬人化したような歌や栗の木の周りを飛び回る場面など、ファンタジー感(幻想的)のある面もあってそれが魅力的で、飛び回る場面も夢の中のこととして描かれています。

 

風の又三郎はよそからやって来た赤毛の男の子でしかないのだろうかと思いながらも、それだけではないような気もするといった不思議な余韻に浸れる面もこの作品の魅力。

 

 

宮沢賢治の最後の言葉は?

 

「どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上の空で無しに、シッカリ落ち着いて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きていきましょう」。

 

この一節は、死の10日前に書いたもの。彼はこの言葉を書くまでに多くの苦しみを経験しました。

 

 

 

宮沢賢治が伝えたかった事は?

 

生きる喜びと助け合って生きていくこと、自然は厳しいところもあるけれど楽しいところもある。弱肉強食の暗い嫌な思いを消し去り、嫌な思いはやめよう嫌なことは忘れようという気持ち。

 

賢治は育つ時は浄土宗の雰囲気に囲まれていたが、島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」1914年を読みそれがキッカケで法華経に帰依します。

 

この世で仏国土を実現すべきであることを知り1920年10月「国柱会」の宗教団体に入会、それが縁となって、高知尾智耀に法華文学の創作を勧められ、法華経の教えをもとにした創作活動を積極的におこなうようになりました。

 

仏教に通じる「抜苦与楽」の生き方が命の奥底にある思いやりがあり周囲に、心配りのできる、尊敬に値する人格者であると感じます。

 

 

まとめ

生前に発表した作品は詩集「春と修羅」童話集「注文の多い料理店」だけ

誕生した年と生涯を終えた年に地震が発生

宮沢賢治はそういう意味で東北復興の象徴と言える偉大な人です

共存共生、仏教に通じる「抜苦与楽」の生き方が命の奥底にある、思いやりのある周囲に心配りのできる、人格者であると感じます。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

宜しければこの記事も読んで下さい

石川啄木の詩集一握の砂代表短歌8首とは?石川啄木はどんな人!
石川啄木は岩手県南岩手郡日戸村、現在の盛岡市日戸出身の歌人、詩人です。 啄木は雅号で、本名は一(はじめ)、1886年2月20日誕生。 詩人、歌人として秀でた才能を発揮しながらも、1912年4月13日26歳の短い生涯を終えました。 北原白秋が詩を連載した、新詩社(出版社)の文芸誌【明星】で頭角を表します。 初めての歌集「あこがれ」を19歳で発表します。

コメント