夏草や兵どもが夢の跡!松尾芭蕉の俳句の現代語訳どういう意味?

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もともと言葉遊びの5 7 5 7 7の俳諧を、5 7 5のわずかな17音の俳句という芸術へと高めたのが松尾芭蕉です。

「夏草や兵どもが夢の跡」、この句は岩手県平泉で、「源義経や藤原氏一族」の没後、500年の歳月が経過して、平泉の高館を訪れた芭蕉が詠んだ有名な句です。

 

この記事では、松尾芭蕉が岩手県平泉で詠んだ「夏草や兵どもが夢の跡」の俳句について、現代語訳と「兵ども」について、「源義経と家来の武蔵坊弁慶、岩手県平泉の藤原一族」について紹介します。

 


この紀行文は1689年元禄2年、弟子の河合曽良と共に奥州(東北)から北陸、岐阜の2,400キロを150日間かけての旅。

45歳にしては困難を予想されていましたが、予想を覆しこの旅も成功させます。

 

 

「夏草や兵どもが夢の跡」!の現代語訳

 

夏草とは生い茂る逞しい雑草全般の事ですが、灼熱の太陽の元でも、枯れる事のない生命力旺盛な夏草のこと。

 

現代語に訳すと、「今は夏草が生い茂るばかりだが、この地はかつては、武士達が栄誉を求めて戦った跡地である、今となっては儚くもひと時の夢となってしまった」と言う意味です。

 

「夢の跡」は、全てが過ぎてしまい今はもう何もない人生の夢みたいな儚さと世の無常を詠んだ句です。

 

 

夏草や兵どもが夢の跡誰のこと?

 

句の中の「兵ども」とは「源義経と家来武蔵坊弁慶、平泉で栄えた藤原氏一族」の事です。

この平泉は平安時代に奥州藤原氏が栄えた地で、死闘を重ねた地が今は跡形もなく消え去った空しさ、「この世の無常」を詠んだ句です。

 

異母兄の「源頼朝」に追われた「源義経と武蔵坊弁慶一行」は、「藤原秀衡」のもとで居城を構えていた場所が岩手県平泉の高館(たかだち)です。

 

「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)の遺言で息子の「藤原泰衡」(ふじわらのやすひら)に「源義経」を庇護するように言われていました。

 

しかし、「藤原泰衡」(ふじわらやすひら)は「源頼朝」を恐れて「源義経」を襲い、義経は妻子とともに自害します。

 

その後、強かな(したたかな)性格の源頼朝は藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を倒そうと平泉に兵をむけます。

藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は秋田県まで逃げ落ちますが、家来によって殺されます。

 

 

平氏を倒すという共通の目的は同じでも、戦い方や考え方の違い、価値観の違いから異母兄「源頼朝」から、敵扱いされてしまった事で悲しい結末を迎えます。

 

悲劇のヒーロとして今なお、色褪せること無く義経の人気は衰える事がありません。

 

 

なぜ源義経は異母兄の源頼朝に追われたのか?

 

義経は、1159年、平治の乱が起こった年に父源義朝と母常磐御前の間に9男として誕生します。
父である源義朝は、義経が2歳の時に平清盛に敗れその後、常磐御前は幼名の牛若(うしわか)後の義経と、今若(いまわか)と乙若(おとわか)の二人の兄と大和へ逃れ、11歳の時に鞍馬寺に修行にいります。

 

 

しかし、出家を嫌い生まれながらに武士の血を受け継いだ義経は、奥州の藤原秀衡(ふじわらひでひら)を頼り平泉へ下ります。

 

その後、時が経ち義経21歳の時、打倒平氏を掲げて戦っていた源頼朝の元へ。

義経も父の敵を兄弟で打とうと決心。
源義経は源平合戦で目覚ましい活躍をした人物です。

 

兄の源頼朝のためにも決心して一の谷、屋島、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし大勝利します。

 

 

 

しかし、義経には見落とした点がありました。

 

① 頼朝の家来を自分の家来でもあると勘違いしてしまった点。

頼朝から見れば義経も家来の一人としか思われていなかった。

 

② 戦いに入る前に武士の世界では名乗る事が常識。

しかし、義経は名乗る事なく奇襲攻撃ばかりでの戦いであった点。

 

③ 後白河法皇から勝手に冠位をもらってしまった事。

 

頼朝の家来ではなく後白河法皇の家来かと頼朝が大激怒した事。

 

この三点で兄の源頼朝を激怒させてしまいます。

 

 

強すぎる義経を疎み(うとみ)頼朝は義経に討伐名を下します。

頼朝の我が身可愛さに、義経を利用するだけ利用してから、討伐とは頼朝の人格も疑わしく思いますよね。

 

義経は頼朝に許しを願う手紙を届けるが、頼朝の怒りはおさまらず、奥州平泉の藤原氏の元へ「源義経と武蔵坊弁慶一行」は京の都から逃げます。

 

義経一行と判らないように、仏教の修行者と義経は自ら荷物持ちの格好に変装して命がけで逃げます。

 

関所で逃げる途中突き止められますが、弁慶の知恵で「京の都の寺の修理のために全国を廻って寄付を集める旅をしていると嘘をつきます。

 

「寄付集め」(勧進帳)の証拠を見せろ!と関所の富樫が迫りますが、実はそんなものは持っていません。

偶然持っていた巻物を寄付帳(勧進帳)に見せ立てて堂々と読み上げ、また関所の富樫の質問にも難なく答えます。

 

このシーンは現在でも、いろいろな演劇や歌舞伎でも演じられるシーンですよね。

 

しかし荷物持ちを不審に思い疑われますが、弁慶の知恵で弁慶が手にしていた杖で義経を叩きます。

しかし、そんな事では関所の富樫は通そうとしません、「荷物持ちの荷物が目当てだな」!と「弁慶」と「関所の富樫」がにらみ合い押し問答になります。

 

関所の富樫には義経であることはすでにわかっています。

 

「そうか!と、「弁慶がそれほど疑われるならこの荷物持ちを殺してしまいましょうか」と「関所の富樫」に伝えます。

しかし、主君を思う篤い心に動かされた「関所の富樫」はその主君を思う真心に感動して、自分が罰せられる事を覚悟の上で、義経と気づかない振りをして、関所を通してしまいます。

 

 

 

その後「弁慶」は主君「義経」を叩いた非礼を涙ながらに侘びますが、義経は機転のきいた「弁慶」に深く感謝して、岩手県平泉の藤原氏の元へ急ぎます。

 

「源義経と武蔵坊弁慶一行」は「藤原秀衡」(ふじわらひでひら)のもと、居城を構えていた場所が岩手県平泉の高館(たかだち)です。

 

しかし、「秀衡」(ひでひら)の遺言で息子の「泰衡」(やすひら)に「源義経」を庇護するように言われていましたが、「泰衡」は「源頼朝」を恐れて「源義経」を襲い、義経は妻子とともに自害します。

 

その後500年の歳月が経過。

芭蕉がこの平泉の高館(たかだち)にのぼり、周囲を見わたすと藤原家の栄華の跡かたもなく消えて、ただ辺りは夏草が青々と茂る風景を目にして、「すべては儚い夢のようだ」と人生の儚さ無常を詠んだ句がこの句です。

 

 

 

この芭蕉の句に似た詩が中国古来の詩人.杜甫の「春望」の一節で前置きにもしるしています。

 

「国破れて山河在り、城春にして草青みたり、笠打ち敷て、時のうつるまで涙を落とし侍りぬ」

「国は滅びても山河は昔の通りだ、城跡にも春になると青草が生い茂っている」私は笠を地面に敷いて、時の経つのも忘れて栄華盛衰の移ろいに涙を落した。

 

この杜甫の詩を意識して詠んだ句で「城春にして草青みたり」の春の草を芭蕉は「夏の草」に転じています。

この芭蕉の句は生い茂っては枯れていく夏草に世の無常を意識して詠んだ句と云われています。

 

 

 

「夏草や兵どもが夢の跡」場所はどこ?

 

岩手県磐井群平泉町 東北地方の中部、岩手県の南西部の町(古代の陸奥国磐井群)現在の岩手県西磐井群平泉町の中心部辺り

平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く「仏国土(浄土)を表す建築、庭園、考古学的遺跡群」の名で、2011年(平成23年)6月26日にユネスコの世界遺産に登録された文化遺産。
(ウイキペディア引用)

 

面積 63.39キロ平方メートル

現在の総人口 6,930人(2022年11月1日)

町 木  すぎ

町 花  さくら

 

 

松尾芭蕉の5つの紀行文は?

 

芭蕉は紀行文学の最高傑作といわれる「奥の細道」をはじめ、「野ざらし紀行」41歳で、江戸から三重県伊賀上野に向かう旅で8月から翌年の4月まで、距離にして2,000キロ。

木曽路、甲州路を経て江戸に帰ります。

同行したのが弟子の千里です。

 

「鹿島詣」1,687年同行者は曽良と宋波、趣のある作品です。

「笈の小文」(おいのこぶみ)杜国の同行で和歌山、大和、須磨、明石の旅です。

「更級紀行」は1,688年の秋、越人が同行して信濃の更科(姥捨て山)に名月を鑑賞するために行った旅です。

 

とある息子が年老いた母親を捨てようと連れ出しますが、美しく澄み切った名月に心が洗われ、捨てようと連れ出した母親を連れて帰ったと言うほど月の美しい名所です。
↓↓
俤(おもかげや)姥ひとり泣く 月の友

 

紀行文の集大成、「奥の細道」芭蕉45歳の時、江戸から東北、北陸をめぐり岐阜の大垣までの2,400キロの旅。

同行したのが河合曽良です。

命がけの旅で、芭蕉に没後1,702年(元禄15年)に発行されました。

 

 

松尾芭蕉は幅広い読書と、俳人として弛み無い努力でその成果としての俳句は、時代を経て今日まで俳句といえば松尾芭蕉をイメージされるほどの真価を発揮しました。

 

不世出の俳人としての知名度を築いた事を素晴らしく思います

 

最後まで読んでいただいたありがとうございました。

 

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