平安時代の宮中の十二単(じゅうにひとえ)は貴族女性の正装(フォーマル)で宮中の儀式での晴れの装いですが、平安時代の女性のイメージといえば十二単ですよね。
源氏絵巻でも普段目にするし、平安時代の宮中の女性は毎日、十二単で過ごしていたと勘違いしてしまいそうですよね?
しかし普段は着用していません。
普段は宮中の女性や公家の女性は、単衣と袴と袿(うちかけ)の3枚だけです。
それに、平安時代初期は、まだ中国風の服、朝服を着用しています。
十二単を宮中の儀式で着用したのは、平安時代中期から平安時代後期で特に絢爛豪華に華やいだ十二単は平安時代後期です。
参考までに平安時代前期は西暦794年(延暦13年)から西暦894年(寛平6年)の100年 この時代の宮中の儀式や公務での服は中国から伝わった朝服です。
平安時代中期は西暦894年(寛平6年)から西暦1068年(治暦4年)までの150年、この時代から十二単の時代です。
平安時代後期は西暦1068年(治暦4年)から西暦1192年(建久3年)までの130年間です。
10世紀後半から十二単を受け継いだ平安時代後期の院政期と言われた時代、白河上皇、鳥羽院、後白河法皇の時代11世紀から12世紀末の100年間は特に十二単で華やいだ絢爛豪華な時代でした。
一般庶民の服は「小袖」(こそで)と呼ばれる着丈の短い着物!
それと一般庶民の服は「小袖」(こそで)と呼ばれる着丈の短い着物とシビラを羽織って腰布を巻いた服が一般庶民の服で、小袖(こそで)は貴族にとっては下着程の扱いにしか見られていませんでした。
この当時は、現代の下着に値するインナーはありません。
ですので下着と呼ばれるものは小袖(こそで)の事と解釈されます。
この服装が庶民の服です。
髪は肩より少し長めですが、一つに束ねた質素な髪型です。
十二単で毎日過ごすとなると、紫式部や清少納言は「源氏物語」や「枕草子」の筆を執るときに、思うように筆を動かせませんよね。
それに十二単と言っても十二枚の衣服を着用していた訳ではなく正式には7枚が正解ですが、重さにしても約20㎏の服で結構な重さです。
宮中行事と高貴な身分の人と会う時だけといっても十二単(7枚の重ね着)での時間を過ごすとなると大変だったでしょうね。
平安時代の貴族女性の服装は!十二単は宮中の正装で晴れの装い!!
十二単は、季節によって色合いに変化をつけて美意識を衣で表現するのが目的です。
一番上の上着から順番に
唐衣(からぎぬ) 一番上に着る服で当然一番目につくので唐服を真似たもので、羽織るだけの短い服。
表着(うわぎ) 唐衣(からぎぬ)の下に着る服
打衣(うちぎぬ) 表着(うわぎ)の下に着る袿(うちかけ)
五衣(いつつぎぬ) 袿(うちかけ)を5枚重ねるので五衣(いつつぎぬ)と呼ばれる。
単衣(ひとえ)袿(うちかけ)の下に着る。
長袴(ながばかま)この袴は筒形で、裾は後ろに長く引きます。
裳(も)は腰に巻くものであったが平安時代になって重ね着するようになった。
7枚の重ね着を十二単(じゅうにひとえ)とよびます。
重さにして20キロですので、かなりな重さですね。
平安時代の貴族女性の服装は!普段はどんな服?
十二単は平安時代の宮中の女性、高貴な身分の正式な服装です。
現在のフオーマルウェアで、正式な宮中行事で身分の高い人の前で着る服です。
平安時代の女性の身長が150cm前後で体力的にも時間の制約上から考えても毎日着るとなると時間の制約上無理がありますよね。
メンタル面から考えても耐えられそうにないですね。
普段着は十二単みたいに7枚着るのではなく、単衣と袴と袿(うちかけ)の3枚です。
宮中の女性や公家の女性は、単衣と袴と袿(うちかけ)の3枚で十二単と比較すると凄くカジュアルな感じですね。
このようにシンプルな感じで過ごしていたから、紫式部や清少納言も筆を執りやすかったでしょうね。
この服装でもう少し上から、はおりたい時は小袿(こうちぎ)をはおっていました。
小袿(こうちぎ)をはおるのは十二単程ではなく、普段着でもビジネスカジュアルのイメージでしょう?
平安時代の貴族の子供や若い女性の晴れ着として他にあと一つ!
平安時代の貴族の子供や若い女性の晴れ着として、他にあと一つ「細長(ほそなが)」という上着もありました。
名前の通り着丈が細長く裾が二つから四つに分かれている服。
平安時代の貴族女性の服装は!夏場はどんな服?
現在より多少は気温が低め、と言っても夏は夏、しかも現在よりは重ね着。
平安時代の首都、京都は盆地で暑いことは想像できますね?
冬場程重ね着はしない。
それに裏地のない単衣、衣更えの時期は旧暦の4月下旬。
京都盆地での夏場暑さに耐えがたい時は、単衣でしのいでいたようす。
単衣は女性の着物の一番下に着る服ですが、下着(現在のインナー)に匹敵する服は平安時代はありません。
当然、宮中や上流階級の貴族の則近として働く女官は下着と言っても現在のインナーとは少し感覚が違いますが服を着て、服の上に汚れ防止のために、湯巻と言う布を巻いていました。
源氏物語において帚木(ハハキギ)、空蝉(うつせみ)、夕顔(ゆうがお)の三帖をまとめて帚木(ハハキギ)三帖と呼ばれることがあります。
その中、夏の夜に空蝉と軒端萩が碁を打つ情景で二人の装いが気になるところ
ですが、空蝉は控えめで奥ゆかしくて、襟元、胸元、手も袖に隠れるようにして、、、この空蝉の人物像は紫式部自身と重なりますが、この奥ゆかしさに、控えめで謙虚、イメージから想像して光源氏が心惹かれたのも頷けますよね。
平安貴族の女官や宮中で仕えるのはいくら夏場は軽装(カジュアル)とは言っても長さから考えて引きずる程の服。
平安時代の夏特にたいへんですね。
平安時代の貴族女性の髪型は?
それぞれの国や時代によって髪型も服装と一緒で時間と共に変化していきます。
女性の髪は平安時代は特別に美の絶対的対象でした。
現代でも「緑の黒髪」という言葉を耳にしますが、平安時代は特に女性の黒髪は絶対的な美の条件の一つです。
平安時代の女性の髪は垂髪と言って長く垂らしているのが一般的です。
平安時代から室町時代まで、貴族や武家の女性の背中に長く垂らしたヘアースタイルが一般的。
その当時の女性の平均身長が150cm前後で、身長より30cm長いことが高貴な身分の女性の髪の長さが理想とされた髪の長さです。
ただし、一般庶民は髪は垂髪に変わりはありませんが、仕事をする時に邪魔にならないように、腰くらいの長さという説もありますが、肩より少し下(鎖骨)までの長さにして一つに結っていたようです。
平安時代には天皇に仕える女性の髪型で高髻(こうけい)という髪型もありました。
中央で分けて左右の髪はそのまま残し後ろの毛を一つにまとめて頭のてっぺんで髷(まげ)を作ります。
髪を二等分して、輪を二つ作り余った毛を十字に髷(まげ)の根元に巻き付けて完成。
奈良時代に中国から伝わった髪型で華やかなイメージがあります。
平安時代の子供の髪型は?
平安時代には5歳から9歳までに伸ばした子供の髪は肩にかかるくらいの微妙な長さで切りそろえていました。
「髪剃」(こうずり)という儀式がありました。
尼削(あまそぎ)というヘアスタイルで現在の(お河童)ボブヘアーですね。
平安時代の家屋は寝殿造り?
平安時代の家屋の作りは寝殿造りで、現在の家のような、家を囲む外壁はありません。
家の中心でお客を持て成したりしていますが、ほとんど部屋の仕切りの固定した壁も襖や障子もないために、衝立や簾(すだれ)を使って部屋の仕切りにしていた事と、貴族のお屋敷には池があります。
そのために池から吹き込む風の影響で、風通しが良いだけに、夏場は凌ぎやすかったと思います。
しかし冬場はその逆で、冷気が入ってきて寒かったでしょうね。
北風の吹く寒い冬場や雪の時は屋根だけあって、外壁もないうえに、部屋の中の壁も襖も障子もない家、現在では想像できませんよね。
まして交通機関にしても水路だけで、陸路、空路はない。冷暖房設備もない、服も住まいも、現在の私たちからは想像できないような時代ですね。
それと単純に比較出来るものではありませんが、私達が生かされている現在に合掌です。感謝しかありませんよね。
拙い文章を最後まで読んで頂いてありがとうございました。
宜しければこの記事も読んでください。
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