正月のカルタあそびでも馴染みの「百人一首」!
現在は「百人一首」は正月の遊びに過ぎませんが、平安時代の王朝人にとっては、移ろいゆく季節の感動であり、愛情の表現手段でした。
現存の「百人一首」百首を選び色紙の形に整えたのは藤原定家です。
もともと百人一首は、「小倉山荘色紙」或いは「嵯峨山荘色紙」として現在のお(写本)としてこんにちに至っています。
これが永い時間を経て、室町時代の初めから「小倉百人一首」と呼ぶようになっています。
その前は「小倉山荘色紙和歌」または「嵯峨山荘色紙形」「百人一首」の成立を考える時に最も大切です。
藤原定家が書いた百人一首の色紙を冊子に写した時に名付けられ誕生したのが
現在の「百人一首」です。
「百人一首」の成立は室町時代初期 どこでつくられたか どんな人が詠んだ?
百首を選んだ動機は藤原定家の日記「明月記」文暦2年(1235年)5月27日に嵯峨中院別荘の襖に貼る色紙を彼の入道(宇都宮頼経)に依頼され 自分は書道を専門的に勉強した者ではないが、依頼を引き受けたと記しています。
この藤原の定家の色紙を小倉百人一首と呼ばれています。
「百人一首」の成立は室町時代初期 どこでつくられたか どんな人が詠んだ?
彼の入道(宇都宮頼経)とは藤原の定家の長男、為家の妻の父親で、関東の豪族である宇都宮頼経のことです。
頼経は北条時政の娘の婿で、たまたま源の頼朝の猶子(公卿.武家の社会で兄弟や親族の子供を時分の子として迎え入れた者)平賀朝雅を将軍に立てようとする時政の陰謀を手助けしょうとして疑いを受けて、北条政子によって討手を向けられ、やむを得ず一族六十余人と共に出家して謝罪、蓮生入道と名乗っています。元久2年(1205年)。
その後承元2年(1208年)頃、法然上人の仏門に帰依して法然の死後はその弟子証空に師事して、西山善法寺往生院の再興に尽力した人物です。
中院山荘を営んだのも京に住む必要からです。
「百人一首」の成立は室町時代初期 どこでつくられたか どんな人が詠んだ?
藤原の定家への依頼は文暦2年(1235年)4月23日か5月1日で宇都宮入道が藤原の定家を招いた時。
この時、藤原の定家は齢(よわい)74歳の高齢でこの2ヶ月前の3月12日に4年の歳月をかけて「新勅撰和歌集」(詩歌や文章を、多くの人の作から集めた書物から選び)終えて小倉山荘に静養中であった。
中風を病んでいたが、思いがけなく蓮華王院蔵の紀貫之の自筆「土佐日記」を見ることが出来て感激し目は高齢で盲のようであったが、書写したと記述があります。
「土佐日記奥書」から小倉色紙もこのように高齢で、肉体的には悪条件のもとでの揮毫された物です。
「百人一首」の成立は室町時代初期 どこでつくられたか どんな人が詠んだ?
百人一首は天智天皇から家隆、政経にまでの歌を百人一首としています。
「小倉色紙」は一面に歌一首を四行書きにして作者名は書いてない。
文字は一字ずつ書いて、連綿は少なく筆太で草書体で運筆には覇気がなくゆっくりとした運筆で書かれていす。
重みがあり、風格をおびて渇筆で表現して趣と格調の高さが感じられる書で、国宝「土佐日記と共に定家晩年の典型的な書風。
江戸時代には大名や旗本、豪商たちが、愛蔵した。
室町時代後期 東常縁の時まで、百枚が伝わっていたとか、宗紙に五十枚が与えられたという伝説があるが、まとまった作品はもっと早く離散して、応永13年奥書に「百人一首抄」序に当時もかの色紙のうち、残っている色紙は数少ないのが事実です。
江戸初期には、小堀遠州(1579年~1647年)「玩貨名物記」にその所有者と共に27枚が挙げられています。
嘉永頃の 所在を知ることが出来それから約150年後の寛政年間松平定信(1758年~1829年)編「集古十種」では所在と共に原寸大に木版での復刻版があるが、その中には真蹟かどうか疑わしい物も混ざっています。
色紙形そのものも装飾紙や白紙、反古紙などの種類の紙があると見られているが、料紙の不統一は現在と違って、紙が貴重な当時は避けることのできない時代背景が伺えます。
昭和になって「ちぎりきな、、、、」「嵐吹く、、、、、」が平凡社の書道全集に収められ
最近は「人もおし、、、」が発見され、それが尊教閣文庫蔵国宝「土佐日記」と筆蹟を同じくする定家の真蹟であることが判明したので「百人一首」の成立上、何よりの証拠になっています。
「百人一首」の成立は室町時代初期 どのようにして百首選んだ?
定家は百首の歌をどのような方法で選んだのか?
揮毫に先立っての準備として、まず色紙の土台(草案本)として「百人秀歌」を選んで「百人秀歌」は百一人百一首の珠玉集でその歌は定家が以前に選んだ歌で、「二十四代集」で「定家八大抄」。
この「百人一首」は勅撰和歌集から直接選んだものではなく、以前から定家の好みに叶った歌の中から、一人一首ずつ選んだものであることが判ります。
小倉色紙が「百人一首」の成立は
小倉色紙が「百人一首」という成書になったのはいつか?
色紙の歌を移し替えた人はだれか?
これについては従来「百人一首」の伝来が為家の長男為氏(二条家始祖)を経て二条家歌学の間に受け継がれてきた経路から推測して為家または二条派の中にいるものと考えられています。
また最近では、宇都宮入道へ色紙形を送った時、入道がどの歌が誰の歌か迷わないように、定家自身で「百人秀歌」を改訂した「百人一首」成書を添えて送ったという説もあります。
しかし、それでは、対関東事情を承知の上で遠島両院を加えたことに対する無記名色紙の配慮が無になってしまうから定家自身、自ら墓穴を掘るようなことをしたとは考えられない。
そこで考えられるのが「百人一首」の書名がもと「小倉山荘色紙和歌」または「嵯峨山庄色紙形」として伝わっている。
小倉山京都.嵯峨の地に穏やかな尾根の流れを見せてひそやかにたたずんでいる
時間と空間の移ろいに心をはせていると、その心は一代の歌聖 藤原の定家卿がその昔この地において選んだ「百人一首」のみやびやかで、はげしいうつろいの心映えと通い合うように思われる。
その妙なるしらべは王朝文化の粋として過去から現在まで、日本人の心に深く根をおろし、美的鑑賞の対象として、より多くの人の教養の素地として生きつづけ、また「歌かるた」として華やかな競技会に受けつがれている。
しかし、百人一首選定の地としての「時雨亭」は現在は小倉山にその場所は明らかでない。
まとめ
現存の「百人一首」百首を選び色紙形にしたのは藤原定家です。
室町時代初期頃から「小倉百人一首」と呼ぶようになった。
古来の人の歌それれ一首を天智天皇から現代の家隆.政経に及ぶまでの歌、百首
「百人一首」の成立は室町時代初期です。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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