百人一首カルタの歴史と遊びを解説!カルタの起源と由来は? 

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正月の遊びかるた、本来はカルタの起源は平安時代の遊び、二枚貝 蛤(はまぐり)の殻合せが起源と言われています。

 

蛤(はまぐり)の殻を二つに分けて片方をさがして合わせて遊ぶというもので、その後、蛤(はまぐり)に絵の具で絵や歌を書きながら宮廷で遊ばれるようになります。

 

その後カルタ遊びは1570年の室町時代のころ、お公家様方の間で幅4cm、長さ12cm程の厚い紙に、かみの句、しもの句をそれぞれ1行に切って、混ぜ合わせ、歌を合わせて遊んだことが始まりです。

 

かみの句がもと歌、しもの句が取り札と言われます。
それがかるたの起源です。

 

 

百人一首カルタの歴史と遊びを解説!

 

その後平安時代と同じように蛤(はまぐり)が使われ蛤(はまぐり)のフタの内側に、金銀の絵の具が使われ、数多く貝を集めた者が勝ちとなる遊びで、一般庶民まで広まりました。

 

足利末期の頃、来日のポルトガル人が使かっていたウンスンカルタ、これはもともと賭博用のカルタです。

 

その50年くらいあと、ポルトガル語のカルタを真似て百人一首でカルタを作り歌留多と名付けて徳川家の大奥や、これに倣う大名達に広まり、当時遊びの少ない時代のためモダンな遊びとして人気がありました。

 

 

カルタの川柳で古いものでは、約300年前の寛文7年「声をあわせよむや、蛙の歌カルタ」そしてその20年後の元禄年間には「いえなみにみやこ女の歌カルタ」というのがあります。

一方一般庶民では、丁稚も小僧も手習の代表、小倉百人一首が手本とされて親しまれた事もあり、江戸庶民に浸透、普及していました。

 

 

百人一首歌留多会!

 

明治時代になると急激な発展を遂げて、お正月になれば、カルタの歌声は家並みに聞こえて若い人達はどこにでも飛び込んで遊んだ事が残っています。

 

当時のかるた会は、きょうのちらし取り、源平合戦が主で10枚読んだら人が交代してリレー式カルタは大正年間にはいってからの遊びである。「金色夜叉」のかるた会も源平合戦であったそうです。

 

明治20年代にはカルタ取りが異常なほど社会に浸透して、高等学校のかるた会で生徒間にチャンピオンを競うかるた会がいろいろなところで開催されるようになった。

 

しかし、当時決まったルールはなくて50枚の持ち札を4段に並べたり持ち札を25枚にしたり、16枚にしたり、また3段並べ、2段並べといろいろななやり方で遊んでいたようです。

 

大正年間のかるた会でも、その時の参加者の人数の多少により、主催者の判断で開催されたが、昭和に入ってからは、競技規定が改正され、三段並び、25枚持ち札と定着しました。

 

 

百人一首競技かるた会!

 

明治37年当時の萬朝報者の社長であった黒岩涙香先生により今までの変体仮名のかるたから総平がなの現在の標準かるたに改訂され、明治37年 の2月11日の萬朝報には次のような広告文が掲載されたようです。

 

小倉百人一首 かるた 会費三十銭 晩餐 弁当 本日日本橋萬朝常盤木クラブで開催

 

正午開場 一時開会 同好者、男女共に御来会ください。  当日朝報者遊戯新式の一番公平な歌留多をつかわれます。

 

技術の秀いでた者に金牌その他賞品を贈ります。

時間に遅れて来会される方或いは加入いたし難い。

 

なるべく早めにおいで下さい。 東京かるた会 発起人。

 

その翌々日の同紙には次のように記載されています。

東京かるた会 おととい、日本橋常盤木同好会にて開催した東京かるた会は東京都内の小倉会、紅葉会、千代田会、暁会、和泉クラブをはじめ横須賀の有明会、静岡の春日会など選手、約100名参加。

 

 

珍しく盛上がり本社遊戯部より寄贈した優秀者、第一位は金牌は小倉会の高田信二、同二位は紅葉会の福原秀 同三位は千代田会の小関東八郎に決定しました。

 

これが東京においての公式戦。かるた会第一回戦で、以来毎年1月或いは2月と11月に大会が開催されるようになった。

 

明治43年1月30日、水戸のかささぎ会と銘打って関東かるた大会と銘打って水戸市弘道館で近隣同士に呼びかけ昼は花火を打ち上げ夜は提灯の行列を試みるなど、空前の盛り上がりとなった。

 

東京かるた会では金牌受賞者など一流選手9名が参加、東京吉野会の小川元吉氏が優勝している。

 

 

百人一首大正年間以降のかるた会!

 

大正時代になって初めて全国かるた会を開催、第一回全国大会は大正2年1月5日 白木屋調製の優勝旗争奪戦として開催された。

 

しかし関西では一年早く明治45年2月18日 大阪市南区の浪花クラブで第一回全国大会を開催して、東京招待選手では、石井、団野の二名が決勝大会に残って優勝旗を手にした。

 

大正12年の関東大震災で白木屋調製の優勝旗は第11回優勝者の明静会の小泉清が、家、家財と共に焼失してしまった。

 

当時の大会は出場者全員1本のトーナメント方式であったため、3、4連勝者を入賞者として、17、8名が入賞、決勝までには7連勝という厳しさで午前10時から翌日の午前3時、4時終了という体力的ハンディもあったので大会前の体力の調整と摂生に充分につとめた。

 

昭和に入ってからは8の倍数の64名で締め切り8名を入賞者として、会場の使用時間制約などの関係も有り短縮法を検討して午後11時までには終えるようにした。

 

この制度によって、選手の疲労も和らぎ女性選手の参加も増えて行ったきた。

 

かるた会では難しいとされていた全国統合を伊藤秀吉氏が、同志の同意を得て果たし昭和9年大日本カルタ協会の設立となった。

百人一首戦争とカルタ!

 

昭和13年第百回記念大会は四谷見附クラブで開催された。ちょうどその元旦南京陥落で開会に先だって万歳三唱した。

 

東京東会の高木優勝。秋田の千葉桃八が8位に入賞している。

昭和18年小倉百人一首愛好団体の存在を全国のかるた会が憲兵隊が知るところとなった。国家非常時国民総動員の中で恋の歌を弄ぶとは何事か、と強いお叱りを受けた。

 

本協会では、知恵を絞って愛国百人一首を持参して恐る恐る持参したところ大いに感激され大大的に普及せよとの言葉であった。

 

それに意を強くして第一回愛国百人一首を橿原神宮で開催したがこれが最後で会場も焼かれ選手も霧散、しばらくは顧みるものもなかった。

 

近年三三、五五集まり蓋、忠報国一点張りの愛国百人一首をでもなかろうと、また百人一首に戻り協会名も全日本かるた協会と改め50余団体の復活から立ち上がった協会も、昭和36年には百団体に近い大世帯に伸展して、会員の要望で名人位戦誕生となった。

 

2年遅れて女性日本一クイン戦も同時に行われ、全国大会は現在、名人、クイン位、決勝戦、選手会、大会の三大行事に指定されている。

 

因みに現在、全日本かるた協会、傘下の団体は百三十余、有段者5000名、会員5万名が競技かるたの研鑽に励んでいます。

 

百人一首競技かるたの力量?

 

競技かるたはどの程度の実力かといえば、敵味方の持ち札50枚を並べ終えたら15分間で完全に暗記して、裏返しても全部取れなくてはならないので記憶力も大切。

 

また取る速さは、「あきかぜに、、、」「あきのたの、、、」上2枚の札は「秋、、、」までは音が同じなので「あき、、、」ではとれないが、「あきか、、、」「あきの、、、」の3字目では絶対に取らなければならないからかなり反射神経が機敏でないと勝てない。

 

「むらさめの、、、」「すみのえの、、、」「めぐりあいて、、、」7枚の1字札は、「む」、「す」「め」、の音を聞いた瞬間一瞬にして取らなければならない。

 

2字目が聞こえた時はすでに札は敵に取られてないのが普通である。

 

競技かるたの会員は初段でもこの程度だから高段者となるには、5年10年と週2回の練習は怠けることは不可能で力量のほか、作戦とか相手の封じ方、相手の出し方すなわち、つき手、払い手、押さえ手など常に研究して経験と感の良さで、初めて大成することです。

 


最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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