与謝野蕪村の俳句の特徴はどんな作風!代表作と人物像は?

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江戸時代の三代俳人、小林一茶や松尾芭蕉と共に有名な三代俳人の一人が与謝野蕪村です。

1716年(享保元年)から1783年(天明2年)俳句だけに限らす文人画家としても才能を発揮します。

 

本名は谷口、名前は信章で俳号を与謝野蕪村で他に「宰鳥」、画号は「春星」「謝寅】(しゃいん)など複数があります。

 

京都府与謝野町(旧丹後の国)の谷口家にはげんという女性が大阪に奉公に出て主人との間に出来た子が蕪村とする伝承とげんの墓が残る。(ウイキペディア引用)

 

出身は摂津国で、現在の大阪府大阪市都島区毛馬町の俳人であり画家でもあります。

 

 

与謝野蕪村の俳句の特徴は?

 

蕪村の俳句は画家としての才能もあり、写実的な描写と色彩感覚が豊かで情景描写がうまく絵画のような俳句です。

 

画家としての才能もあり、数多くの作品が国の重要文化財として指定されています。

蕪村の俳句の特徴は、俳句と絵画を活用した俳画が特徴で俳画のジャンルの第一人者です。

 

明治時代に活躍した、正岡子規による明治29年に著した「俳人与謝野蕪村」によってその存在が注目されるようになり広く世に認知され始めます。

 

 

 

与謝野蕪村の生い立ちは!

 

1,716年に摂津国(大阪市都島区毛馬町の谷口家)で誕生します。

1783年(天明2年)12月25日(享年68歳)の生涯を終えます。

 

小林一茶や松尾芭蕉と共に有名な三代俳人の一人で江戸時代中期に俳人.画家で、俳句と絵画の両方の俳画の創始者であり第一人者、小林一茶、松尾芭蕉と共に俳諧の三大俳人です。

 

1,732年(17歳)の時に両親共に失い、1,735年(20歳)江戸に出て俳諧の祖「松永貞徳」から俳句を学ぶ。この時の俳号は「宰鳥」という俳号を名乗っています。

 

江戸の俳壇はこの当時、低俗化しています。

 

その後早野巴人(はやのはじん)松尾芭蕉の孫弟子に俳諧学びますが、1,742年(27歳)の時に早野巴人(はやのはじん)松尾芭蕉の孫弟子、死後江戸を去る。

 

両親にしても、師匠の早野巴人(はやのはじん)松尾芭蕉の孫弟子にしても、蕪村は若くして多くの死に直面しています。

 

17歳から27歳の多感な時期に大変な出来事を体験して、このころから俳人を訪ねたり、松尾芭蕉のゆかりの地を旅しています。

 

その後、下総国結城(現在の茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおかがんとう)に寄寓し、松尾芭蕉に憧れて僧の姿で東北地方を旅します。

 

宿代の代わりに絵を提供して旅を続けます。

 

 

1,751年(36歳)京都に移住、寺院に保管してある絵画を手本として絵画を学ぶことに専念します。

 

1,754年(39歳)、丹後の国で滞在し、天橋立に近い宮津の見性寺の住職.触誉芳雲(俳号:竹渓)に招かれて丹後地方の俳人(真照寺住職、鷺十)や(無縁寺住職の両巴ら)交流して「はしだてや」という草稿(下書き)を残します。

 

この当時画家として制作に専念し、「方士球不死薬図屏風」(ほうしぐふしやくずびょうぶ)もこの頃描いています。

 

1,745年(42歳)京都へ戻り与謝野の名を名乗るようになります。

 

1,751年(48歳)放浪の旅を終えた蕪村は京都や母親の丹後地方で絵画の勉強に専念しつつ制作に精力的に向き合います。

 

1,760年(45歳)所帯を持ち一人娘の「くの」が誕生します。

 

1,766年(51歳)四国.讃岐と京都を行き来して、讃岐に「蘇鉄図屏風」(そてつずびょうぶ)などの作品を残します。

 

1,770年(55歳)氏、早野巴人(はやのはじん)が名乗っていた夜半亭を引き継ぐ。

 

1,783年(68歳)心筋梗塞で京都で生涯を終えます。

 

京都府与謝野町(旧丹後の国)の施薬寺には、幼少の蕪村を一時預かったことで、丹後の国に戻った蕪村が施薬寺にお礼として屏風絵を贈った事が伝わっています。

 

 

与謝野蕪村として開花したのは40歳を超えてからです。

 

砂岡雁宕(いさおかがんとう)の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとうろきゅう)宅に居寓して編集した「歳旦帳」で初めて蕪村の俳号を名乗ります。

https:

 

 

与謝野蕪村春の俳句10選

 

① 一輪を 五つに分けて 梅散りぬ

② 鶯の 声遠き日も 暮れにけり

③ 鶯や 茨くぐりて 高こう飛ぶ

④ うつむけに 春うちあけて 藤の花

⑤ 馬下りて 高根のさくら 見付けたり

⑥ 梅ちりて さびしく成し やなぎかな

⑦ 梅の香の 立ちのぼりてや 月のかさ

⑧ おぼろ月 大河をのぼる 御船かな

⑨ 傾城(けいせい)は 後の世かけて 花見かな

⑩ さびしさに 花さきぬめり 山ざくら

 

 

 

与謝野蕪村の俳句代表作は?

 

「春の海 終日(ひねもす) のたりのたりかな」

暖かい季節の中で穏やかな海をただゆったりと眺めている情景が浮かんでくる句ですね。

 

与謝野蕪村の句は情景描写がうまくて、絵画をみているような句を詠むことが得意です。

文学と芸術の両分野で功績を残していることから考えても納得できますよね。

 

画家としても数多くの作品を残しています。

 

[鳶鴉図屛風]、「蘇鉄図屏風」(そてつずびょうぶ)、「方士球不死薬図屏風」(ほうしぐふしやくずびょうぶ)等。

 ↓ ↓     ↓ ↓

[鳶鴉図屛風]

 

1,770年(55歳)氏、早野巴人(はやのはじん)が名乗っていた夜半亭を引き継ぎ重要文化財にも指定された「奥の細道図屏風」が有名です。

 

これは松尾芭蕉の原文を写し絵画を入れた作品です。俳句と絵画のキャリアを自由自在に活用しつつ、俳画というジャンルの第一人者です。

 

しかし、蕪村の作品が世間から注目されるようになったのは、蕪村が亡くなってから後のことです。

 

松尾芭蕉の存在があまりにも偉大でその他の俳人の存在は影が薄かったようです。

 

与謝野蕪村の存在が注目されるようになったのは、明治時代に活躍した俳人、正岡子規による明治29年に著した「俳人与謝野蕪村」という書物によって広く世に認知され始めるのです。

 

1783年(天明2年)12月25日(享年68歳)の生涯を終えますが、「俳人与謝野蕪村」が書かれたのが1,896年と113年の時を経てからです。

 

その後、詩人、萩原朔太郎も昭和になってから与謝野蕪村のことを作品として、世に知られるように社会に俳人与謝野蕪村の名前も認知されるようになります。

 

芭蕉が亡くなって20年後に誕生した蕪村、芭蕉に強いあこがれを持っていた俳人ですが、現在に至っては、松尾芭蕉と共に知名度のある江戸時代の俳人として名を連ねています。

 

 

まとめ

 

与謝野蕪村は若くして両親と共に師匠を失って少年時代から青年期は波乱万丈の時期を経験する。

 

10年の間北関東や東北を旅して俳諧、絵画のために感性を磨く

 

晩年は師匠、早野巴人(はやのはじん)が名乗っていた夜半亭を引き継ぎ、俳句と絵画の俳画という新ジャンルを開拓して精力的に活動して、現在に至っては、松尾芭蕉と共に知名度のある江戸時代の俳人として名を連ねています。

 

少年時代から青年期は波乱万丈の時期を経験した、その経験によって蕪村の境遇や自分の目で見た旅での経験や体験が俳句と絵画によって晩年になって大成します。

 

蕪村を手本としていろいろなことに挑戦していけば、必ずいずれは才能として開花するものなのでしょうね。

 

最後まで読んで頂いてありがとうございました。

 

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