平安時代の貴族女性の髪は垂髪!長い髪にしていたのはなぜでしょう?

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引きずるほどに長く伸びた、つややかで美しい黒髪というと、平安時代の女性の印象があります。

 

サラサラとした黒髪は、女性にとって永遠の憧れですよね?

 

高貴な婦人の髪の長さはどれくらいの長さでしょうか?

 

当時の貴族女性の髪はなぜ長かったのでしょうか?

 

この記事では、平安時代の女性の髪について解説してみたいと思います。

 

 

平安時代は肌より髪のケアの優先順位が高い!

黒くてつややかな長い髪は、平安時代の美人の条件の一つでした。

衣類とのバランスから考えても、髪の毛のボリュウームは大切です。

 

平安時代の女性は、引きずるように伸ばした髪で、大垂髪(おおすべらかし)という下げ髪です。

 

「大鏡」には、牛車に乗って毛先が、母屋の柱に引っかかった程の長さの女御がいたことが記されています。

 

身の丈か、それ以上に長い髪であったことが、この「大鏡」からもわかりますよね。

 

大事な公式の行事の時は、結い上げて髪飾りを付けていたが、結い上げと言うヘアースタイルをするのは、宮中で奉仕する女官などの一部の女性です。

 

それ以外の女性は、髪を垂らした状態で生活していました。

 

当時の絵巻物を参考にすると、おおよその髪の長さがわかりますが、十二単の女性が座った時は、その裾よりも髪のほうが、長く描かれていることが判ります。

 

身丈よりも、長く伸ばした女性もいたことがわかります。

 

この時代は、貴族が支配する社会で、屋外で労働をする事なく、歌を詠んだり、香を楽しむ優雅な生活を送る女性たちは、肌も白く、髪を束ねる必要もありませんでした。

 

 

平安時代の美人はどんな人?

平安時代の美人の条件は、切れ長の目、きめの細かい白い肌、ふくよかな頬。

 

サラサラしたつややかな黒髪、体型もふくよか、大きな顔、鼻筋が通った小さな鼻、小さな口元、平安時代の美人の代名詞が小野小町ですよね。

 

体もふくよか、大きな顔は現在ほど、飽食時代でない当時の時代背景を反映したことが判りますのね。

当時の美人の条件は、白い肌と切れ長の目ふくよかな顔とおちょぼ口、それと百人一首で見るようなつややかなロングヘアーが美人の条件でした。

 

髪の長さは、女性によって違いますが、身丈よりも長いか少し短いかでした。

 

平安時代の女性は髪が長いので、歩く時も床をひきずって歩いていたはずです。

 

それだけに、髪のケアーも大変だったようです。

 

当時は、現在みたいに市販のシャンプーなどのヘアケア製品はない上に、洗髪の習慣も入浴の習慣さえない時代。

 

サラサラとした髪毛を保つために苦労も多かったでしょう。

 

洗髪は数ヶ月に1度で、それも占いによって、吉日を選んで、しかも洗髪は一日がかりで実行していたほど。

 

長髪をどのようにケアーしていたのでしょうか。

 

ケアーの方法は、桑の葉と麻を泔(ゆする)で煮て、滓を(かす)を除いたもので、7回髪を洗うと6尺に成長すると言われていました。

泔(ゆする)とは、米のとぎ汁です。

 

髪の毛を梳かしたり、髪を洗う時に用いていたそうで、(927年)には、「ゆする」のための白米が宮廷に保存されていたそうです。

 

ゆするには、セラミドなどの油分が含まれていることから、ヘアオイルとして髪の毛の艶を保つ効果があります。

 

角質を吸着する効果もあるために、毎日シャンプーできなくても、ある程度の清潔感を保つことができました。

 

米のとぎ汁には多くのビタミンやミネラル、脂質、でんぷん質、セラミドなどの天然オイルが含まれています。

 

古い角質を吸着する働きがあるので、頭皮の汚れを落とし、セラミドの効果でサラサラとしたつややかな潤いのある髪を維持できたのでしょう。

 

現代では、理解できない程の髪の長さですので、手入れも一人の貴族女性に、複数の女房が髪を梳く。

 

就寝時には、髪が寝癖がつかないように、髪を箱に入れたり、匂い消しに香を入れた枕を髪に巻き付けたり工夫をしていたようです。

 

時代が変わっても、美しい髪は憧れの対象であり、美人の条件。

 

平安時代からそれを維持するために、努力を重ねる事や、美しきありたい美の執念は、今も昔も変わらないのですね。

 

それに白髪は、現在のように市販の白髪染めを購入して、染めるように簡単にはいきません。

 

「千回以上髪をとかせば、白髪にならない」?

 

「正月に五香を用意して、湯で煮て頭を洗うと白髪にならない」など。

 

(五香とは栴檀、沈水香、丁子香、安息香、鶏舌香)旧暦の正月は現在の暦で2月の始め。

 

こう言う寒い時期に、長い髪を洗うと、白髪を予防する前に、風邪をひいてしまいそうですね。

 

しかも当時の女性の髪の毛の長さは、その当時の女性の平均身長が、140cmから150cmですので、その長さ+30cmが貴族女性の髪の長さです。

 

歴史物語の「大鏡」の当時の権力者.藤原道長の4人の娘の髪の長さについて、以下のような記述があります。

 

参考までに髪の長さを表示します。

彰子の髪  着物の裾より長い
妍子の髪  着物の裾より一尺程長い
威子の髪  着物の裾より一尺程長い
嬉子の髪  身長より7、8寸長い

 

身長以上の長さの髪を洗うだけでも大変な労働です。

 

その当時の住まいは、屛風や簾で仕切られていて、現在の日本家屋のように、襖や障子は有りません。

 

まして暖房もない。

 

洗い髪に真冬の冷気では、想像を絶する状況です。

 

洗髪回数を少なく、衛生状態が良くない平安時代の宮中の女性は、現在以上に髪のトラブルも負担になっていた筈です。

 

紫式部は、髪の毛については、ノーマルですが、清少納言はくせ毛(ちじれ毛)で現在のウイッグを付けていました。

 

人工毛のない時代ですので、当然天然の人毛です。

 

長い毛髪の不要な毛で、ウイッグを用意されていました。

 

 

 

垂髪が称賛される反面に?

長い髪、垂髪が美人の条件の一つの平安時代。

 

「源氏物語」の中で、紫の上が洗髪をした後、濡れた髪を床に広げて、自然乾燥させていた。

 

光源氏は、それを見て、「膨らんだりした箇所が全然なく美しい髪だ」と思っている。

 

いつの時代も、真っ直ぐな髪は、好まれると言うことを物語っている反面に、紫式部の「源氏物語」には、きれいな尼を見た光源氏が、「髪の美しけにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしいものかな」と感じる描写もあります。

 

この描写は、「髪がきれいにきりそろえられた長い髪より新鮮さを感じる」という意味です。

 

必ずさらさらとした長い黒髪だけに、美しさを感じた訳ではないことが分かります。

 

平安時代の貴族女性の垂髪は美人の条件の一つですが、さらさらとした、長い黒髪だけが、美しさの条件ではなかった一面が分かる描写です。

 

 

平安時代の女性は顔を見せないのはなぜ?

女房たちは、衵扇を使って宮中行事をメモしたり、物の受け渡しに使用していましたが、顔を隠すためにも使っていました。

 

それに高貴な身分の女性は、几帳という衝立のようなものに隠れていたり、扇で顔を覆って顔が見えないようにしていました。

 

源氏物語に登場する「大君(おおいきみ)」は、臨終の時ですら、袖で顔を覆って隠していた。

 

平安時代の女性はそれ程、顔は滅多にみせることはなかった。

 

当時の貴婦人は、夫や親兄弟以外の男性に、顔を見せる文化がなかったことも理由の一つです。

 

 

 

平安時代の洗髪は数ヶ月に1度だけ?

「枕草子」に「心ときめきするもの」(心がときめくもの)として「頭あらひ化粧して、香ばしゅうしみたる衣など着たる。

 

髪を洗って化粧をして、良い香りが炊き染められた着物を着るとあります。

 

長い髪を洗うのは大変ですが、洗髪は、いつの時代も気持ちのいいものだったのですね。

 

 

 

長い垂髪は平安時代貴族女性のヘアースタイル!

長い垂髪は、当時の代表的なヘアースタイルですが、宮中で優雅に暮らし、身の回りの事も自身でする必要のない貴族の女性は、十二単に垂髪の長い髪です。

 

しかし、十二単衣は、宮中でも公の行事が、ある時だけ身に付けていて、普段は単衣と袴で、行動しやすい服装でした。

 

身丈を超えるほど、長く髪をのばす事が、現実に出来るのか?

 

女の子は生まれてから、4歳位までは、生えてくる髪の毛を、伸びてくるたびに、剃って丸坊主にしていました。

 

毛根に刺激を与えるとやがて、丈夫でコシの強い髪の毛が生えて来るので、当時の絵巻のように、サラサラとした髪の毛を身の丈ほどか、それ以上に長く出来た事が伺える。

 

一般庶民の女性は、一応は垂髪に変わりはありませんが、普段は優雅とは程遠く労働をします。

当然生活のために労働をします。

 

宮中の身分の高い女性と同様に、乱れる程に長い黒髪と言う訳にいきません。

 

労働し易いように肩までは伸ばしますが、それ以上長く伸ばすことはなく、一つに束ねていたようです。

 

宮中の女性(紫式部や清少納言)よりも一般庶民の女性のほうが、洗髪は頻繁にできたのかも知れませんね。

 

 

垂髪は、平安時代だけに限らず、安土桃山時代になると上流階級の女性だけでなく、一般庶民も垂髪でした。

 

江戸時代になると、結髪が流行して、垂髪は廃れていきます。

 

現在迄、垂髪を受け継いでいるのは、皇族などの高位の女性と、神社の巫女は、現在でも垂髪を受け継いでいます。

 

平安時代の貴族社会と、日本文化や歴史に関心を持つきっかけになれば幸いです。

 

 

まとめ

平安時代の貴族女性の髪型は、垂髪という長い下げ髪です。

貴族が支配する社会で歌を詠んだり、香を楽しむ生活を送る女性たちは、髪を束ねる必要はありませんでした。
百人一首で見るような、つややかなロングヘアーが美人の条件でした。

「源氏物語」では、光源氏は垂髪だけに限らずきれいな尼を見た光源氏が、「髪の美しけにそがれたる末も、なかなか長きよりも、こよなう今めかしいものかな」と感じる描写の記述から、長い黒髪だけでなく、剃髪も良い事が分かります。

高貴な身分の女性は、几帳という衝立のようなものに隠れていたり、扇で顔を覆って顔が見えないようにしていました。

平安時代の貴族女性の垂髪について紹介しました。

 

 

最後まで読んで頂いてありがとうございました。

 

 

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