今からさかのぼること、千年前平安時代の世界で最も古い長編小説「源氏物語」
今なお、日本だけでなく世界に名前を轟かせている世界最古の長編小説です。
この記事では、源氏物語の主人公「光源氏」の誕生についてあらすじと内容、なぜ紫式部が源氏物語を書き始めたのか紹介します。
紫式部が源氏物語を書き始めた理由は!
紫式部は中流貴族の出身です。
「源氏物語」を書き始めた理由は、結婚して3年目で夫(藤原宣孝)と死別。
経済的、精神的に大変な苦しみをあじわいます。
その苦しみを忘れるために書き始めたのが「源氏物語」と言われています。
源氏物語で有名な光源氏の誕生について?
光源氏は、平安時代の紫式部の「源氏物語」の主人公。
「源氏物語」(1008年)は全巻54帖からできています。
光源氏は1帖から40帖までに記されています。
1帖の桐壺では、「光源氏」の父の桐壺帝と母の桐壺更衣の出会いと「光源氏」の誕生から12歳の元服まで。
どのようにして誕生して、幼少期をどのように過ごしたのか、またどれ程、神々しく光り輝く男の子だったのか紹介します。
父親は桐壺の帝、母親は桐壺更衣で特別に高貴な身分ではないが絶世の美人です。
母親は大納言の娘ですが、大納言は他界していて、桐壺更衣の後ろ盾になることはできません。
しかし、大納言は娘を入内させることを望んでいたのです。
光源氏の母親は高貴な身分ではなかった。
身分から言えば、桐壺の帝の后に相応しい相手ではない。
入内はさせたものの更衣です。
位から言うと更衣の上が、女御、その上が后(きさき)中宮です。
桐壺の帝は正室として、その当時の右大臣の娘の「弘徽殿の女御」(こきでんのにょうご)の存在があります。
すでに右大臣の娘との間に皇子も誕生、その皇子が天皇になることはきまっています。
このような状況の中で、絶世の美女の桐壺更衣はその類まれな美貌ゆえに、桐壺の帝の寵愛(ちょうあい)を受けます。
兎に角、昼も夜も桐壺更衣を片時も離しません。
このような状況を見ていた側近は、世界三大美人の一人、中国の楊貴妃に例えて国が滅びるかもしれないなどと心配します。
このような状況の中で誕生したのが、源氏物語の主人公「光源氏」です。
桐壺の帝の第二皇子が「光源氏」です。
しかし、桐壺の更衣は他の妻たちから嫌がらせによる嫉妬で、心を病んで光源氏が幼少の頃この世を去ります。
「光源氏」は、桐壺更衣の亡き後は、北の方(きたのかた)桐壺更衣の母親で「光源氏」の祖母に預けられ幼少期を過ごします。
「光源氏」は、桐壺の帝と絶世の美女、桐壺更衣との間に誕生した子供ですので、眉目秀麗で美しい。
類いまれな美人を母親に持つ光源氏です。
当然、輝くように麗しく容姿端麗で文武両道。
音楽や書、それに絵画や踊り、それに平安時代の蹴鞠(けまり)、何をさせても卒なく熟し(こなし)全てにおいて秀逸。
帝は容貌から学問、音楽、全てにおいて秀でた「光源氏」が、いずれ権力争いの因になることを恐れ、臣籍に降ろし「源」という姓(かばね)を与えます。
秀でた容貌から、輝く程の神々しさを備えていて「光る君」と宮中でも讃えられます。
その光るような神々しさによって、「光」というあだ名がついたようです。
それ程の美少年で、秀でた雲上の存在です。
華麗なる王朝文化「源氏物語」の主役が光源氏です。
当然、桐壺の帝の正室右大臣の娘「弘徽殿の女御」(こきでんのにょうご))との間に誕生した第一皇子は、神々しい美少年「光源氏」には到底及びません。
桐壺の帝は桐壺の更衣を失った寂しさで、やがて藤壷という女性を妻として迎えます。
この後妻が桐壺更衣に似ていることから、桐壺の帝は満足します。
しかし、光源氏は母親の顔を知りませんが、周囲から桐壺更衣と藤壺がよくにているといわれるうちに、藤壷に恋愛感情を持つようになります。
12歳になる源氏は左大臣の娘「葵の上」と結婚、4歳年上の妻に、馴染めず桐壺の帝の後妻(藤壺)に、今は亡き母親(桐壺の更衣)の面影を感じ藤壺にますます思を募らせます。
源氏の理想とする女性が桐壺の帝(実父)の後妻、義理の母である藤壺です。
後妻の藤壺と共に光る源氏も桐壺の帝の寵愛を受けます。
その後、桐壺の帝の後妻、藤壷と光源氏は恋心が芽生え藤壷は光源氏の子供を産みます。
その子供が後々天皇になりますが、光源氏の誕生については先に紹介したように、桐壺の帝と類まれな美貌の桐壺更衣の子供として誕生したのが光源氏です。
源氏物語の執筆の理由と千年の時を越えて読みつがれる理由?
千年という深遠な気の遠くなるような時を経て、尚、現在でも漫画化されるほどの人気。
世界中でいろいろな言語で翻訳されるなど、新たな出版物として人気の衰えることがありません。
平安貴族の淡い夢物語ではない快楽から情熱、欺瞞、恋愛の全てが記されているのが「源氏物語」です。
紫式部が平安時代中期の宮中に仕えつつ、貴族社会の政治的野望。
権威権力の抗争を背景に、類まれな美貌と英知、学問から音楽まで余すところなく才能が際立つ光源氏。
それに秀でた人格で、周囲の人を魅了する光源氏の栄枯盛衰、栄華と凋落、光源氏の恋愛遍歴を詳細かつ雅やかに描いています。
それが現代にも共鳴する面があって、千年の時を超えて読みつがれている理由でしょう。
源氏物語が書かれた理由は、紫式部の先天的な文才や夫(藤原宣孝)を失った悲しみを忘れるため。
継続できたのは、藤原道長の支援のせいでもあるでしょう。
藤原道長が「源氏物語」の存在を知ったのは、宮中に評判が広まってから後の事です。
藤原道長からの紙の提供は途中からですので、その事が直接の執筆理由にはなりません。
しかし、宮中に仕えてからも書き続けていますので、藤原道長の支援は紛れもない事実です。
豪華絢爛な紙に書いて新しくなった「源氏物語」を見て、紫式部は嬉しく思っていません。
「紫式部日記」にそのような主旨のことを述べています。
紫式部の心情が手にとるように理解できます。
「源氏物語」の原点は、文庫本みたいな粗末な紙に書いていたそれが原点です。
豪華絢爛に装飾が施された紙の「源氏物語」は、本人の意思とは裏腹で、権力に利用されているようで聡明な紫式部にとっては、悔恨の思いが残ったことでしょうね。
紫式部自身も絢爛豪華な紙に書かれた「源氏物語」を望んではいません。
その思いこそ紫式部の率直な思いです。
紫式部が源氏物語を書いた理由とは!
結婚相手の夫は貴族で、藤原宣孝という現在で言うエリート官僚です。
結婚して3年で夫(藤原宣孝)と死別、娘が誕生して、これから後の生活を考えると経済的、精神的に大変な苦しみをあじわいます。
心の奥底から湧き出ずる、苦しみを忘れるために書き始めたのが理由です。
「源氏物語」は、宮中に仕える前から書き始めています。
(藤原宣孝)と死別という苦しみを、忘れるために書き始めた「源氏物語」です。
千年の時を越えて尚、現在も色あせることのない世界最古の女流長編小説「源氏物語」!
紫式部の「源氏物語」は、千年の時を経て今なお世界中に名を轟かせています。
書き始めた頃は趣味として、友人、知人に読まれ、短編作品のような形で、「空蝉」や「夕顔」などからはじめ書き進める。
除々に書いた作品が、現在のような54巻の長編小説へと繋がっていきます。
当時の貴族の雅な遊びが、「和歌」歌を贈り合う遊びで、在原業平や紀貫之も多くの歌を残しています。
小説は書いていません。
和歌より小説は格が下とは言っても、「源氏物語」は、多分当時の貴族達の知性を虜にしたことでしょう。
有名な紫式部の源氏物語は広く世に浸透します!
紫式部が宮廷に仕えたことで「源氏物語」は、より広く浸透して貴族のあいだでも読まれるようになります。
その当時は印刷技術のない時代に、いろいろな人が写して後世に伝わりました。
「源氏物語」を研究する上で最も信頼できる物です。
現存の源氏物語は藤原定家の物です。
写し書きは藤原定家自らが写すのではなく、定家に仕えた女性達が写したとされています。
当時高貴な位の人だけが使うことができた、青い墨で訂正してあり、定家本人が修正した形跡も残っています。
源氏物語で有名な紫式部の源氏絵巻
徳川美術館(愛知県名古屋市東区)と五島美術館(東京都世田谷区)所蔵
公開されるたびに、大勢の見学者を魅了して止みません。
まとめ
千年前、平安時代の世界で最も古い長編小説が「源氏物語」です。
結婚して3年で夫(藤原宣孝)と死別、心の奥底から湧き出ずる、苦しみを忘れるために書き始めたのが「源氏物語」。
除々に書いた作品が、現在のような54巻の長編小説へと繋がっていきます。
印刷技術のない時代に紫式部の原文のまま、「源氏物語」を一番忠実に再現されたものが、鎌倉時代に活躍した藤原定家の写し書きです。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
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