鎌倉時代はどんな時代!鎌倉幕府を開いた人と鎌倉幕府の特徴は?

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鎌倉時代と言うのは、幕府が源頼朝によって、現在の神奈川県鎌倉市に置かれていた時代のこと。

貨幣経済が発展した時代です。

平安時代の平家から源氏に政権交代して本格的な武士の時代へ変わった時代です。

源頼朝が開府して150年間続きました。

源氏の将軍は第3代将軍の源実朝が暗殺されて途絶えます。

義朝が暗殺されて将軍不在の時に北条政子が将軍の仕事を代行執権の義時が補佐に当たりました。

第4代から5代は最高位の摂家で、第6代以降は皇族からふさわしい人を就任させました。

鎌倉時代はどんな時代!鎌倉時代の成立は?

源頼朝が征夷大将軍に任命された年が1192年(建久3年)です。

頼朝が敵対していた平氏を滅ぼして、朝廷から守護・地頭の設置を認められたのは、1185年(文治元年)です。

守護というのは、国ごとに置かれた軍事・警察の役割。

地頭というのは、荘園や公領ごとに置かれた税の取り立てと治安維持を行うこと。

これらの任命権を得て頼朝が支配力を高めたのが1185年(文治元年)です。

成立の年代の明確なことは現在も議論中です

鎌倉時代はどんな時代!なぜ鎌倉を拠点にしたの?

先祖から代々継いだ土地や縁が鎌倉にあったことと頼朝の先祖「源頼義」(みなもとよりよし)の妻の父親が先祖「源頼義」(みなもとよりよし)を信頼して鎌倉に所有していた屋敷を譲りました。

1051年~1062年の東北地方の内乱「前九年の役」で活躍した人物です。

頼義の息子の義家も、1083年~1087年に東北地方に起こった「後三年の役」(ごさんねんのえき)で活躍します。

この「後三年の役」(ごさんねんのえき)で徴兵されたのが、「坂東武者」関東の武者です。

この時は恩賞が朝廷からでなかったため義家は自腹をきって恩賞を「坂東武者」関東の武者に支払い、喜んだ「坂東武者」関東の武者達は、朝廷には不満を持った坂東武者達も義家には末代まで協力されるほど信頼を勝ち取ります。

       ↓↓ ↓↓ 50年
 頼信→頼家→義家→義親→為義→義朝→頼朝

生まれながらの地縁血縁があったため鎌倉に幕府を開きました。

鎌倉時代はどんな時代!鎌倉幕府はどんな文化?

鎌倉時代は、有力な御家人同士の闘いが頻繁に発生し、周りの御家人が滅んでいく中で北条氏は最高責任者としての執権や幕府の要職を独占します。

平安時代の貴族を主にした「国風文化」から武士の精神や、中国の(宋や元)の文化を取り入れて彫刻や絵画、文学などこれまでにない文化が数多く誕生しました。

難しい教養がなくても親しめる軍記物語や、物語を図解した絵巻物庶民文化が浸透しました。

鎌倉時代はどんな時代!鎌倉幕府はなぜ滅びたの?

蒙古襲来で、当時東アジアを支配していた元と属国の高麗が、2度日本へ侵攻してきた事件。

武士達の奮闘と暴風雨などの天候不順で鎌倉幕府が勝利しました。

しかし、内乱では勝利した幕府が敗者の土地を没収して御家人達に恩賞として与えました。

蒙古襲来は侵攻を防いだだけで取り上げる領地がないため恩賞として必死に戦った武士に上げる恩賞はありません

元弘元年(1331年)今度は後醍醐天皇が倒幕計画と立てますが、幕府へ密告され隠岐へ流されました。逃げ延びた武士達が潜伏しながら各地で反幕府活動を行いました。

1333年(元弘3年)年後醍醐天皇は隠岐を逃れ挙兵します。幕府の御家人であった室町幕府を開いた足利尊氏が味方につき京都の六波羅蜜を滅ぼしました。

同じ時期に御家人の新田義貞が鎌倉へ攻め入り執権の北条高時を自害に追い込み、最後の将軍・守邦親王は将軍職を退いて出家します。

鎌倉時代の食事はどんな食べ物!料理はどんな料理?

貴族の食事は?

米と土地は権力の象徴で平安時代の流れを受け継ぎ、贅沢ながらも食生活は不健康なものでした。

白米のおかゆや、釜で炊いたやわらかいご飯の姫飯などを食べていました。柔らかくするため栄養価の高い胚芽が取り除かれていたので、脚気にもかかりやすくなっていました。

おかずは干物や塩漬けなどの保存食が中心でした。食事には細かい作法が決められていたので同じメニューが何日も続くことが多く、栄養も偏りやすかったのも貴族の食事が不健康だった一因になっています。

武士の食事

鎌倉時代の武士も質素な生活がモットーでした。武士は同じ米でも玄米を好んで食べていて、強飯と呼ばれました。

炊かずに蒸した玄米が主食でした。この習慣から現在の1日3食につながったと言われています。おかずは、焼き塩・味噌・梅干しのいずれかと焼き魚が基本でしたが、現地調達で食べることも。

携帯食として現代のおにぎりにあたる屯食が生まれたのもこの頃からで、奈良から平安時代は、僧侶が権力を持っていたので肉食禁止令が出るなど肉食は忌み嫌われていたのです。

しかし、武士は戦いや長距離を歩くこともあるので、肉は貴重な栄養源でした。食べていたのは主に狩りでとったウサギ、たぬき、イノシシ、鹿、クマ、サルなどです。

鶏肉はウズラや鴨など飼育した鳥が主でした。牛、馬は農作業で使う大切な家畜なので食べなかったとされています。

農民の食事

庶民の食事の回数は、1日に2食でしたが、お米は年貢として納めなければならなかったので、庶民が食べられるのは麦・粟・稗などでした。

一部玄米が混ざった粥を食べる場合が多く、強飯は祭礼など特別なときのご馳走でした。

しょう油のもととなる溜の誕生

鎌倉時代になると、しょう油のもととなる溜が登場します。

溜は味噌を作るときに底の部分に溜まる醤油のようなもので、僧侶が信州で味噌造りを教えていたときに発見されました。

鎌倉時代の食事は平安時代からの伝統的な食事が多くて、食材の味付けに調味料は使われていないお膳の赤に塩や醤が別に盛り付けられ、提供されていました。

現代で使われるしょう油もその後、室町時代になってから作られました。

農業技術の発展と二毛作

鎌倉時代になると、農業技術が発展して二毛作が可能になりました。くわ、すき、灌漑設備、こえ、水車などが使われます。

農業の面では、牛馬耕や金属製の農具、水車などを利用した灌漑施設の整備、肥料の発達などで生産力が上がりました。

当時の武士は基本的に役職がなくて普段は農民として畑やたんぼを耕していました。出来上がった作物は年貢として納めます。自分の取り分を多くするのに工夫をしながら農業をしていました。

屯食が登場

当時は戦が多く、携帯食が登場していた時代で、屯食はおにぎりの原型となるものですが、握って焼いた玄米を竹の皮で包んで持ち歩いていました。

玄米をそのまま持ち歩いて布に包んで濡らしてから、土に埋めてその上で焚火をすることで玄米が炊き上がる調理法も行っていました。

米が権力の象徴

米は、鎌倉時代に入ってからも権力の象徴でした。平安時代までは田んぼの土地の所有者である米家や貴族たちが権力を握っていました。

鎌倉時代になると土地を守る者が力をつけ、土地を奪いあう形になっていました。

赤飯の風習

鎌倉時代の末期には、武士や貴族の代として赤飯の風習が広まりました。
赤飯は平安時代からありましたが小豆粥と呼ばれるもので、現代の赤飯とは違うものでした。

鎌倉時代後期から室町時代にかけては製鉄技術の向上により蒸したご飯から炊いたご飯へ炊飯の方法が変化していきます。

さらに精米技術が向上したので武士の間でも玄米から白米を食べる習慣へと変化したこと、農耕技術の向上から赤飯を武士の間でも食べられるようになりました。
おめでたいときに食べられる赤飯ですが、赤は日本では古代から魔よけの意味を持っています。

食事の回数は朝夕の1日2回

鎌倉時代の武士の食事の回数は、朝と夕方の2回が基本でした。戦が多いときは体力を消耗するので1日5食をとることもありました。

いざ鎌倉というように戦などの緊急時になると保存食が多く活躍して、当時貴重だった味噌は味噌汁になるので重宝されました。

戦のときの武士の食事のカロリーは3,000㎉となのでかなりの量を食べていました。

主食は玄米

鎌倉時代の武士の食事は基本的には質素なもので、戦で食べるものがない状況でも困らないようにしていたのです。

一汁一菜のときもあったようで、武士の主食は玄米で、白米を貴族から下の身分が食べられるようになるのは室町時代からです。味付けもしないで塩や梅干しなどと一緒に食べることで調味していました。

ま と め

先祖から代々継いだ土地や縁が鎌倉にあったことで、幕府が源頼朝によって、現在の神奈川県鎌倉市に置かれていた時代のことた

平安時代の貴族を主にした「国風文化」から、武士の精神や、中国の(宋や元)の文化を取り入れて彫刻や絵画、文学などこれまでにない文化が数多く誕生しました

鎌倉幕府が滅んだ理由は、当時東アジアを支配していた元と属国の高麗が、2度日本へ侵攻してきた事件があったが、一時は武士達の奮闘と暴風雨などの天候不順で鎌倉幕府が勝利しました

蒙古襲来は侵攻を防いだだけで、取り上げる領地がないため、必死に戦った武士に上げる恩賞がなかった

1333年(元弘3年)年後醍醐天皇は隠岐を逃れ挙兵。

幕府の御家人であった室町幕府を開いた足利尊氏が、味方につき京都の六波羅蜜を滅ぼした

同じ時期に御家人の新田義貞が鎌倉へ攻め入り執権の北条高時を自害に追い込み、最後の将軍・守邦親王は将軍職を退いて出家して鎌倉幕府は滅びました。

「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようなり、現在は過去の光に照らされて初めて理解できるようになるのです」、歴史は現在と過去の対話である。 (E.H.カーの言葉引用)

古今東西いつの時代も絶えずさまざまな事が起こり時代は歴史となって続いていくのですね。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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