滝廉太郎の「荒城の月」は、音楽の教科書にも掲載され音楽の授業で口ずさんだ哀愁漂う心にしみる懐かしい名曲ですね。
明治34年(1,901年)20世紀という新世紀を迎えた新鮮さも加わって島崎藤村や土井晩翠などの詩人が現れ新体詩運動が栄えます。
この記事では歌詞の意味や作曲背景などについて紹介します。
「荒城の月」滝廉太郎の曲が作られた背景は?
1,900年代、日本では卒業式でお馴染みの「蛍の光」や「仰げば尊し」などの日本の歌詞に西洋音楽の曲が主流でした。
この歌の誕生のきっかけは、東京音楽学校が中学唱歌を編纂のため懸賞募集したのがきっかけでした。
「荒城の月」の歌詞を作詞したのは当時の有名詩人土井晩翠です。作詞 土井晩翠 詩人 英文学者(1,871年~1,952年)で、明治時代から昭和時代に活躍した人です。
この歌の誕生のきっかけは、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の校内の教員や学生に懸賞募集し、学生だった滝廉太郎は「荒城の月」、「豊太閤」、「箱根八里」の3曲を提出。3曲すべて採用されました。
作詞は土井晩翠、作曲は滝廉太郎に決まりました。
【荒城の月】滝廉太郎のモデルとなった城は?
この「荒城の月」のモデルは土井晩翠が、旧姓2校生の時に修学旅行で訪れた会津若松市の鶴ケ城の荒涼とした城跡に感銘を受けたことと、故郷の宮城県の仙台市の青葉城をしのびながら詩を作りました。
土井晩翠氏の宮城県仙台市の青葉城址、福島県会津若松市の鶴ケ城址。
滝廉太郎氏が曲を構想した大分県竹田市の岡城阯、富山県富山市の富山城西側の4箇所が挙げられます。
20世紀という新世紀を迎え、島崎藤村や土井晩翠などの詩人が現れ新体詩運動が起こります。
「藤晩時代」と称され同じ時代に活躍した「島崎藤村」の詩は女性的で「土井晩翠」の詩は漢詩的で男性的な作風が特徴で校歌や寮歌を数多く作詞しているので名前を聞いたことはあると思います。
滝廉太郎は「花」、「箱根八里」、「お正月」などの歌曲を遺しています。
【荒城の月】の歌詞の意味は!現代語訳?
1.
春には城内で花見の宴が開かれ
回し飲む盃には月影が映る
千年の松の枝からは こぼれ落ちた
昔の栄華は今どこの
2.
秋の古戦場 陣跡の霜に静寂が満ちる
空を行く雁の群れの鳴き声
敗れた兵の地面に刺さった刀に映る
彼らの命の輝きは今どこに
3.
今や荒れ果てた城跡を
夜半の月が照らす
昔と変わらぬその光
主も無く 誰のために
石垣に残るは葛のツタのみ
松の枝を鳴らす風の音のみ
4.
天上の月が照らす影は今も変わらず
されど世の中の栄枯盛衰を
今もなお映そうとしているのか
ああ 荒城を照らす夜半の月よ
【荒城の月】滝廉太郎の童謡に生きる日本の心?
このいずれの城も明治4年(1,871年)に施行された廃藩置県で壊された城で、この「荒城の月」は挽歌であり悼歌です。
武士制度の廃滅を意味する維新後、不満をもった武士達が城に籠もり反乱を起こすのを怖れた明治政府によって壊されました。
当時君臨していた270名の大名と190万の士族が一夜にして失業したにもかかわらず、外国の脅威に支えられて反乱もなく明治政府に従いました。
【荒城の月】滝廉太郎の童謡は山田耕筰の編曲によるものです?
発表した時には、滝廉太郎はメロディーしか作っていませんが、現在歌われている「荒城の月」のメロディーと伴奏は山田耕筰の編曲によるものです。
滝廉太郎は日本人で始めてのピアノ留学生としてドイツ留学。
明治34年4月に横浜を出港、10月ライフプッ匕王立音楽院の試験に合格。
音楽史、美学を勉強しはじめたものの、11月25日のオペラ鑑賞の帰途風邪を悪化させて大学病院に入院翌年の10月17日横浜に帰国。
大分県竹田市の父母の元へ帰省して旅館で療養していましたが、無くなる直前、あの「荒城の月」が歌われる限り、幻の岡城阯と共に思い出されるでしょうと滝廉太郎自ら母へ伝えています。
滝廉太郎にとって「荒城の月」はそれほどの自信作だったのでしょう。
明治36年(1,903年)6月29日、わずか23歳と10ヶ月の短い生涯を終えました。
滝廉太郎はこの後の日本人作曲家に多大な影響を与え、洋楽黎明期に彗星の如く現れその後の音楽の発展にしるした功績は、現在まで引き継がれています。
現在も大分県竹田市では、毎朝6時になると「荒城の月」のメロディーがながれています。
仙台市の青葉城本丸跡、会津若松市鶴ケ城跡、岩手県二戸市福岡城址、大分県竹田市の岡城阯
の4箇所に「荒城の月の記念碑」が建てられています。
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滝 廉太郎
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土井 晩翠
【荒城の月】滝廉太郎のメロディー!メンデルスゾーンの交響曲第3番の影響?
「滝廉太郎」とドイツの作曲家「フェックス.メンデルスゾーン」の交響曲第3番はメロディーもにています。
ドイツの作曲家「フェックス.メンデルスゾーン」は(1,829年)に渡英スコットランドの首都エディンバラのホリルード宮殿、栄枯盛衰と世の無常を象徴する廃墟を目にして、16小節の楽想を書きとどめた。
これが交響曲第3番でメロディーは滝廉太郎の「荒城の月」と共通点があります。
栄枯盛衰と世の無常を象徴する廃墟「スコットランドの首都エディンバラのホリルード宮殿」と土井晩翠氏の宮城県仙台市の青葉城址、福島県会津若松市の鶴ケ城址、滝廉太郎氏が曲を構想した大分県竹田市の岡城阯、富山県富山市の富山城西側の4箇所に共通していること。
栄枯盛衰と世の無常を象徴する側面は国の内外を問わず共通していますね。
海外の寺院の廃墟と日本の城跡!
スコットランドで栄華を極めた寺院の廃墟に相当する建物があるとすれば、日本では各地に残された戦国時代の城郭で栄枯盛衰や諸行無常の印象が抒情感豊かに描写されています。
メンデルスゾーン交響曲「スコットランド」が初めて演奏されたのは1,900年12月、滝廉太郎が「荒城の月」を作曲するわずか数ヶ月前のこと。
当時東京音楽学校の研究員であった滝廉太郎が交響曲第3番を耳にした可能性はかなり確率がたかいでしょう。
滝廉太郎「箱根八里」はメンデルスゾーン交響曲第2番「讃歌」第一楽章との共通点も挙げられることからメンデルスゾーンの多大な影響を受けています。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
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