江戸時代の三大俳人といえば、小林一茶、与謝蕪村と松尾芭蕉です。
この記事では「おくの細道」の紀行文でお馴染みの松尾芭蕉の名所・景勝地を10箇所紹介します
松尾芭蕉おくの細道俳句の足跡!名所・景勝地10選!
「おくのほそ道」は松尾芭蕉の中では最高傑作として現在まで親しまれています。
「おくのほそ道」の旅は、1689年の春に江戸深川を船で出発。
その後千住から陸路を北上栃木県へ向かって弟子の曽良を伴っての二人旅。
松尾芭蕉当時46歳、弟子の曽良は40歳で目的は、宮城県の松島と栃木県の平泉と象潟。
東北から北陸へと歌枕を回り、終着点の大垣までの5ヶ月間距離にして2400kmの長旅でした。
5ヶ月で一日の移動日の平均距離は約30kmです。
松尾芭蕉の俳句が胸に沁みる景勝地、観光名所を10箇所上げると次の県の聞いたことのある地名があげられます。
栃木県の日光東照宮 http://www.nikko-kankou.org/spot/2/
栃木県 裏見の滝
宮城県 松島
岩手県 高館義経堂
岩手県 中尊寺金色堂
山形県 立石寺(山寺)
山形県 最上川
新潟県 出雲崎
石川県 那谷寺
岐阜県 大垣
おくのほそ道の有名な一節は!
おくの細道の書き出しの有名な一節は、「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり、、、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂白の思いやまず」。
漂泊の思いとは、宛もなくさまようという意味です。
おくの細道はどこを旅したのか!
江戸の深川を出発して栃木県の日光から宮城県の松島、岩手県の高館義経堂、山形県を通って新潟から石川県の金沢、福井県の敦賀を通って岐阜の大垣到着。
三重県の伊勢に向けて出発するまでの事が、書かれています。
松尾芭蕉はなぜ旅にでたのでしょうか?
隠遁者(いんとんしゃ)の行脚(行脚)修行が目的で歌枕などの古典文学上の名所・旧跡を現実に見たいという願望や、能因・西行・宗祇などの先人の足跡を慕う心を求め、芭蕉流の俳諧を広げようという意図が考えられます。
松尾芭蕉が松島で諦めた理由は?
松尾芭蕉が栃木県から松島に来て俳句を詠めなかった所が松島で詞(詞)で表す事ができないと俳句を詠むことを諦めたところが松島です。
松島は「四大観」と呼ばれる絶景が4つあり、「壮観」「麗観」「偉観」「幽観」で、朝陽や夕焼け、初日の出など太陽と関わる時間帯が宿泊客に人気があります。
松島が有名なのは260余りの島々があり平安時代から歌に詠まれたり絵画に描かれて名前が広く世に知れ渡り、伊達政宗の瑞巌寺、五大堂などの寺院が建立され人々が訪れるようになりました。
松尾芭蕉は江戸時代の俳人!
いがの武士出身で、「わび・サビ」で表現される幽玄閑寂の芭蕉独自の排風を確立。
松尾芭蕉は日本各地を旅して、名所旧跡を回り歌枕(和歌の題材になっている所を回り、様々な人と交わっている。
「笈の小文」「更科紀行」「野ざらし紀行」などの書物に残され、晩年の書物が「おくのほそ道」です。
芭蕉は「おくのほそ道)の旅を岐阜県の大垣で終えましたが、はじめて大垣を訪れてのは、「野ざらし紀行)の旅の途中で、貞享元年(1684)年9月下旬。
目的は以前から親交があった船問屋の谷木因を訪ねるためでした。
この時、木因宅にひと月程滞在して木因が縁で大垣の俳人たちが門人になりました。
松尾芭蕉が住んでいた場所は文京区の胸突坂の途中、二度目の江戸入りの際に澄んでいた場所があります。1677年から3年間過ごした場所で当時藤堂家が行っていた神田上水の改修工事に携わりました。
「おくの細道」の紀行文からさまざまな歌枕と松尾芭蕉の健脚ぶりが伺えますね。
まとめ
「おくのほそ道」は松尾芭蕉の紀行文の中では最高傑作です
江戸の深川を出発して栃木県の日光から宮城県の松島、岩手県の高館義経堂、山形県を通って新潟から石川県の金沢、福井県の敦賀を通って岐阜の大垣到着
隠遁者(いんとんしゃ)の行脚(行脚)修行が目的
芭蕉流の俳諧を広げようという意図が考えられます
「笈の小文」「更科紀行」「野ざらし紀行」などの書物に残され、晩年の書物が「おくのほそ道」です
「おくの細道」の紀行文からさまざまな歌枕と松尾芭蕉の健脚ぶりが伺えますね。
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