平安時代の印象は貴族の華やかで雅な印象をイメージしますよね。
平安時代の政治や文化について、特徴や主な人物について述べてみます。
平安京(現在の京都府)を作ったのは桓武天皇(かんむてんのう)です。
現在の京都府ができたのは、江戸時代の終わり(1868年)慶応4年。
その前に平安時代の390年を前期、中期、後期に分けたので、参考にして下さい。
794年桓武天皇(かんむてんのう)が長岡京(現在の京都府向日市奈良時代後期の都があったところ)から、平安京(現在の京都府)に都を移してから1185年に鎌倉幕府が開かれるまでの390年間を平安時代といいます。
平安時代の出来事!主な人物と政治や文化の特徴は?
平安時代前期は西暦794年(延暦13年)から西暦894年(寛平6年)の100年間を前期
平安前期は遣唐使を廃止して唐との交流が途切れたことによって、日本独自の国風文化ができあがります。
平安時代中期は西暦894年(寛平6年)から西暦1068年(治暦4年)までの150年間を中期
中期は藤原氏が主になり摂関政治(藤原良房流一族が天皇の外威、要職となって政治実権を独占した
平安時代後期は西暦1068年(治暦4年)から西暦1192年(建久3年)までの130年間です。
後期は上皇(天皇の位を譲った後の人)が院政(引退した筈の人が実権を握って取り仕切る政治)を、おこなうようになり、源氏と平氏が争っていた時代。
10世紀後半から平安時代後期の院政期(天皇の皇位継承の後政治を実権を握った時代。
白河上皇、鳥羽院、後白河法皇の時代11世紀から12世紀末の130年間でこの期間を平安時代後期といいます。
平安時代中期は西暦894年(寛平6年)から西暦1068年(治暦4年)までにどのような事が起きたのでしょうか?
平城京(奈良)を平安京(京都)へ移したのはなぜ?
桓武天皇が天皇に継いだ時は都は平城京で現在の奈良市にありました。
その都を平安京として京都に移したのが(794年)桓武天皇(かんむてんのう)です。
なぜ奈良から京都に都を移したのかと言うと
① 政治のため
② 日本の平和のため 日本国民のためです。
平城京(奈良)から平安京(京都)に都を移した理由は、大和川流域より淀川流域のほうが広大であり、政治のため、日本国民のためです。
人間が生活していくためには、水と森林は必要不可欠なものですよね。
その当時毎年立ち木、100万本が必要。
しかし、大和川流域の森林再生能力を超えてしまえば、山は枯渇して保水能力がない。
そうなると湧水も失われ飲料水が手に入らない。
それに木のない山では雨のたびに土砂災害が頻発する可能性もある。
奈良盆地の水はけが悪くなると不衛生になり、住まいや田んぼや畑は浸水してしまう。
そう言う理由で、大和川流域より何倍も広い淀川流域の京都に、都を移したのです。
平安時代の出来事! 主な人物と政治や文化の特徴は?
平安時代中期は西暦894年(寛平6年)から西暦1068年(治暦4年)までの150年間を中期
中期は藤原氏が主になり摂関政治(藤原良房流一族が天皇の外威、要職となって政治の実験を独占した時代)
現在の天皇は日本の象徴ですが、平安時代中期は、天皇が政治の頂点にたち、政治を支配していた時代です。
現実に政治的争いが絶えない時代でもありました。
平安時代の出来事! 主な人物と政治や文化の特徴は?
① 794年 奈良から京都に都を移した
② 858年 藤原良房流一族が天皇の外威、要職となって政治の実権を独占した時代
③ 880年 藤原基経が初めて関白となる。
④ 894年 遣唐使廃止して日本独自の国風文化が確立
⑤ 1068年 後三条天皇が即位して、摂関時代(藤原良房が政権を握る時代)が終わる
⑥ 1086年 白河天皇が上皇(皇位継承する事)となり院政(政治の実権は握っている事)を開始する。
⑦ 1108年 「源義親の乱」を勃発 (源の義家の子義親が九州で官史殺して隠岐の国、現在の島根県隠岐の島へ島流し)平正盛が源義親を追討する。
⑧ 1159年 「平治の乱」勃発 白河天皇の側近の信西と藤原信頼の対立によって起こされた乱
⑨ 平清盛が太政大臣(だじょうだいじん)朝廷の最高職となる
⑩ 「壇ノ浦の戦い」(現在の山口県下関市)で平家が滅亡朝廷が源頼朝に守護 地頭の設置を認める
⑪ 1190年 源頼朝が上洛(京都行き) 権大納言 近衛大将(宮中の警護を司る近衛府の長官)となる。
⑫ 1192年 後白河法皇が崩御。 源頼朝征夷大将軍(源の頼朝から徳川慶喜まで幕府の長)となる。
平安時代の政治の特徴は?
平安時代の政治の特徴として、政治の実権を貴族が握っていましたが、その実権を武士が握るようになった。
平安時代前期は貴族が政治の実験を握っていて、その貴族を護る役割が武士の努めであったが、天皇の側近としていろいろな役目をこなすうちに、貴族よりも武士のほうが実力をつけていった。
平安時代末期になると朝廷から独立した、鎌倉幕府が実権を取り平安時代は終わりを迎えます。
平安時代の文化の特徴は?
貴族と一般庶民では、生活全般に違いがあります。
貴族は寝殿造りと言う池のある広大な屋敷に住んでいました。
庶民は竪穴式住居で地面を掘って壁や屋根を付けた単純、簡素な住まい。
それに身にまとう服も普段は十二単ではなく、宮中の女性や公家の女性は、単衣と袴と袿(うちかけ)の3枚だけです。
それに、平安時代初期は、まだ中国風の服、朝服を着用しています。
十二単を宮中の儀式で着用したのは、平安時代中期から平安時代後期で、特に絢爛豪華に華やいだ十二単は平安時代後期です。
宮中の女性の髪の長さはその当時の女性の平均身長が150cmですので、髪の長さは身長150cm+30cmが宮中の女性の髪の長さの理想の長さです。
それが美の象徴でした。
その当時は顔はほとんど見せませんから、美しさの象徴はきれいな黒髪を保つ事です。
一般庶民の服は「小袖」(こそで)と呼ばれる着丈の短い着物とシビラを羽織って腰布を巻いた服が一般庶民の服で、小袖(こそで)は貴族にとっては下着程の扱いにしか見られていませんでした。
この当時は、現代の下着に値するインナーはありません。
ですので下着と呼ばれるものは小袖(こそで)の事と解釈されます。
この服装が一般庶民の女性の服です。
髪は肩より少し長めですが、一つに束ねた質素な髪型です。
貴族の男性の服装は束帯、衣冠、直衣、狩衣です。
束帯が正装であれば、衣冠は略正装といった服装です。
束帯は宮中で日中に着る仕事着で、衣冠は宿直のためにできた服です。
束帯の帯は革製で硬い窮屈なもので、宿直のためにできたのが衣冠です。
束帯が腰の部分を内側に入れるのに対して、衣冠は外に出します。
直衣(のうし)は平安時代の貴族の普段着で家でくつろいだり、宴の時の遊び服です。
家で着る服で仕事着の束帯や衣冠のように色で区別されていません。
色は自由自在に選べました。
直衣で仕えるエリート貴族は、色々な束帯を身に着ける貴族たちの中で直衣で仕えたりしました。
狩衣は脇の下から下に着ている単衣が見える服装です。
最もカジュアルな普段着です。
平安時代の一般庶民の男性は、上半身に「「直垂」(ひたたれ)という前合わせ部分に紐が付いていて、前で結ぶ服を着て下半身は着丈の短い裾絞りの小袴(こばかま)を履いていました。
柄はどのような柄でも自由に使用できたそうです。
直垂の服には、冠は萎烏帽子という決まりがありました。
平安時代を代表する人物は?
紫式部
970年代学者をしていた藤原為時の娘、藤原の孝子(こうこ或いはたかこ)こと紫式部です。
源氏物語は万葉カナで書かれていますが、幼い頃から勉強が好きで特に漢文は秀でていた。
藤原宣孝と結婚して娘が誕生しますが、夫に先立たれ「源氏物語」を執筆したのがこの頃です。
後に一条天皇の后になった彰子の女房役として仕えます。
宮中の多くの人に読まれ、宮中に仕えている間に完成したのが、千年の時を経て今なお世界に名を轟かせている「源氏物語」です。
清少納言
966年頃の有名な歌人清原元輔の娘。
993年から宮廷で宮中定子に仕えそこで見たり、聞いたりしたことを随筆としてまとめたのが「枕草子」です。
定子が亡くなってその後宮中を去ります。
藤原道長
藤原兼家の五男。
左大臣として政権をとり、娘四人を天皇に嫁がせています。
長女の彰子(紫式部が教育係)が一条天皇との間に誕生した敦成親王が誕生した時は大喜びだった。
「紫式部日記」にも書かれています。
敦成親王が後一条天皇に即位すると道長は摂政に。晩年には糖尿病で亡くなる。
桓武天皇
桓武天皇が天皇に継いだ時は都は平城京で現在の奈良市にありました。
その都を平安京として京都に移したのが(794年)桓武天皇です。
桓武天皇の母は朝鮮半島の百済の帰化人です。
そういう理由で桓武天皇は母親のような帰化人を数多く登用しています。
帰化人とは他国の人が日本国籍を取得して暮らしている人のことです。
最後まで読んでいただいてありがとうございました
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