宮沢賢治(1896年~1933年)は、岩手県花巻市を代表する偉人。
商家に生まれながら農業を学び、花巻農学校で教壇に立ち、自ら畑を耕し地域の農業発展に尽力します。芸術、文学、科学などの様々な分野で才能を発揮。
賢治の書いた「銀河鉄道の夜」や「雨にも負けす」などの童話や詩は現在も多くの人に親しまれています。
法華経を根本経典として、文学の根底には、法華経の教えがあり宗教思想家です。
法華経の国柱会を創設した田中智学の「芸術を通じて道を説く、これが真の芸術なり」という文芸感が賢治の執筆活動に影響を与えています。
出身は盛岡で、盛岡農林高等学校を卒業して、1921年から5年間花巻農学校で教諭。
彼の作品は生前はほとんど無名に近く没後、草野心平達の尽力により詩人、童話作家、科学者宗教家として多彩な才能が、広く世に知られ評価が高まり、現在でも愛好家が存在します。
この記事では、宮澤賢治の生涯について紹介します。
生前に発表した作品は詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」だけ!
生前に発表した作品は詩集の心象スケッチ「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」だけ。
しかし、自費出版で殆ど売れることなく、本人が買い取る状況でした。
数多くの作品は没後評価を受けた作品です。
執筆ジャンルは詩、童話、短歌の他、俳句や戯曲などで宮沢賢治の置かれた環境や関わった人物から影響を受けて、童話は小学校の三年生の時の先生が話した事に感動したことがキッカケになっています。
15歳から始めた短歌については入院中の看護師への恋や父親との対立を題材にして歌っています。
花巻農学校では、校歌をはじめ作詞作曲を行い書いた戯曲を生徒に提供しています。賢治にとって最も充実した時期でした。
この頃短歌という形式から口語の事由詩「心象スケッチ」を書き始めました。
常に手帳と鉛筆を持ち歩き思い浮かんだその時々の事を詩にしています。
賢治の文学作品は活動の前半は短歌、童話の作品が多く、後半に(心象スケッチ)、その他にも数多くの俳句や戯曲など多彩な才能を発揮します。
宮沢賢治の作品に影響を与えた一番の出来事は妹トシの死でした!
宮澤トシは、1898年(明治31年)~1922年(大正11年)は日本女子大学校(当時は旧制専門学校)を卒業後岩手県立花巻高等女学校(現在の花巻南高等学校)で教員を務めていたが、結核で死去。
彼女の臨終の模様は「永訣の朝」賢治の詩で描写されて、その後の賢治の創作活動に大きな影響を与えた。
「白い鳥」という詩の中で、二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかわしながらしめった朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ 死んだわたくしのいもうとだ
かなしい別離が、亡き妹への悲しみとなり人の心を揺さぶる詩となった。
1926年に農民の生活向上のために「羅須地人協会」を設立して農業指導に力を入れます。
しかし、無理をして肺結核が悪化して1933年37歳の若さで生涯を終えます。
数多くの作品は没後評価を受けた作品です。
執筆ジャンルは詩、童話、短歌の他、俳句や戯曲などで宮沢賢治の置かれた環境や関わった人物から影響を受けて、童話は小学校の三年生の時の先生が話した事に感動したことがキッカケになっています。
15歳から始めた短歌については入院中の看護師への恋や父親との対立を題材にして歌っています。
21年、県立花巻農学校の教諭となり、花巻農学校では、校歌をはじめ作詞作曲を行い書いた戯曲を生徒に提供しています。
常に手帳と鉛筆を持ち歩き思い浮かんだその時々の事を詩にしています。
宮沢賢治独居自炊「羅須地人協会」をつくる!
26年に農学校を退職して農業青年を集め「羅須地人協会」を作り農芸化学や農民芸術論の講義、レコード鑑賞、合奏練習などの文化活動を開始。
無料で肥料設計などを献身的な活動を行う傍ら、農業、芸術、科学、宗教の一体化を望むが警察当局に、監視され、結核を発病するなどで、挫折した。
その後砕石工場の技師となるが、再発して「銀河鉄道の夜」などを未発表の原稿を残して、33年に37歳の生涯を閉じます。
数多くの童話や詩歌は新鮮な言語感覚自由な想像力で次第に多くの読者を獲得して国民作家となります。現在賢治の作品はさまざまな絵本や映画、舞台で創作されています。
宮沢賢治の文学の特徴は!
宮沢賢治の作品は短編小説が多いのが特徴。
「童話」と言っても決して子供向けの作品だけでなく、人間の愚かさや浅ましさを描いたものまであります。
宮澤賢治の作品を読んだことがない人は、いないのではないかと言われるくらい生活に根付いた作品です。
宮澤賢治の考え方は!
法華経を根本にした考え方で「世界全体が幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」「農民芸術概論綱要」引用
周囲が幸せになる事が自分の幸せ、その幸せに至るためにはいろいろな経験を積み重ねなければならないと賢治は考えていました。
宮沢賢治が有名になったきっかけは!
宮澤賢治は生前大正13年(1924年)に詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」を刊行したが、自費出版でほとんど売れず自分で買い取っています。
昭和8年(1933年)没後、全集などが発行されるに連れ、評価がたかまります。
宮澤賢治のテーマは!
宙(そら)、「科学」、「芸術」、「祈り」、「農」5つのテーマで紹介!
宮澤賢治の信仰は!
詩人童話作家だけにとどまらず農業技術者、仏教者として活動した。
賢治は仏教(浄土真宗)の厚い家で育ったが青年時代に法華経に惹かれ島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」青年時代に「南無妙法蓮華経」に惹かれ経典が座右の書になります。
1914年それがキッカケで法華経に帰依します。
この世で仏国土を実現すべきであることを知り1920年10月「国柱会」の宗教団体に入会。
法華経の信仰者です。
宮沢賢治の主な作品は?
「銀河鉄道の夜」、「風のの又三郎」、「ポラーノの広場」、「注文の多い料理店」、「どんぐりと山猫」、「よだかの星」「雪渡り」、「やまなし」、「セロ弾きのゴーシュ」他。
まとめ
宮沢賢治(1896年~1933年)は、岩手県花巻市を代表する偉人
「銀河鉄道の夜」や「雨にも負けす」などの童話や詩は現在も多くの人に親しまれています
生前に発表した作品は詩集の心象スケッチ「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」だけ
数多くの作品は没後評価を受けた作品です
詩人童話作家だけにとどまらず農業技術者、仏教者として活動した
法華経を根本にした考え方で「世界全体が幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」と考えていた
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
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