西行法師の有名な和歌と歌風の特徴は? どのような人物!

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西行法師は「小倉百人一首」、「新古今和歌集」で有名な平安時代末期の歌人であり、僧侶でもあります。

藤原の俊成(しゅんぜい)と共に平安時代の代表的な歌人です。
西行法師の和歌の特徴は、「花鳥風月」などの風光明媚な情景を自分で感じたままを、技巧に拘ることなく素直に詠んでいるのが特徴。

願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ

続古今和歌集 巻17.雑歌上.1527

現代語訳 願うなら桜の咲く春、その木の下にしにたいものだ、如月の満月の頃に

技巧にこだわることなく、心の思いを素直に詠んでいます。
僧侶でありながら、歌人としても独特な主題と詠風を確立した。

西行法師の名前の由来は?

「西行法師」の西行の名前は、仏法の極楽浄土が西方にあることが名前の由来です。

仏門に帰依するからには目す所は当然極楽浄土のはず。

西行法師は「願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ」の詠んだ歌のとおり、願い通りに亡くなりました。

 

 

願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ

続古今和歌集 巻17.雑歌上.1527

現代語訳 願うなら桜の咲く春、その木の下にしにたいものだ、如月の満月の頃に!

釈迦のように死にたいと願ったとおりに、かつて西行が詠んだ歌の通り桜の季節に世を去った。

命日は(旧暦の2月16日)1190年3月23日。

2月15日は釈迦の命日です。

 

 

西行法師 どのような人物!

 

生まれは和歌山県紀の川市の出身で1118年(元永1年)~1190年(文治6年) 今年で生誕905年です。

西行法師は文永元年(1118年)左衛門の尉の父 佐藤康清と母は源清経の娘、その次男として誕生。

実名は佐藤義清(のりきよ)で佐藤仲清は兄です。

佐藤家は近江三上山の百足(ムカデ)退治で有名な藤原秀郷は先祖で西行法師はその9世の孫です。

佐藤家は代々、君主を警衛する近衛兵に仕えて経済的にも恵まれた家柄の出身です。
代々武士の家柄で、徳大寺藤原実能の働きも影響して、京の都で宮仕えをするようになり、鳥羽院の「北面の武士」として華やかな世界に身を置き生活
義清の蹴鞠(けまり)、騎乗や刀、弓矢の才能が認められて北面武士として勤務していた。
しかし、突然出家して西行としてはじめのうちは鞍馬山で生活した後、高野山で生活、全国を旅して多くの和歌を詠みます。

諸国を旅して仏道修行と歌作に専念した。

西行法師の出家の理由は?

西行は北面武士(ほくめんぶし)です。

北面武士は11世紀に白河上皇が創設した。

御所の北面下に近衛として詰め、上皇の身辺を警衛、御幸に供奉した武士のこと。

院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。(ウィキペディア引用)
エリートとしての地位を捨てて1140年(保延6年)出家。

理由は北面武士在職中から心は仏道に関心を持っていて、家柄は富み、心に憂いなどないが、思い切って遁世している。

理由は次の事柄が考えられます。
• 急死した友人をみて無常を悟った。
• 皇位継承をめぐる政争へ失望した。
• 高貴な身分の女房への失恋。(相手は鳥羽院の中宮.侍賢門印璋子)

その後の西行は諸国行脚の旅を重ね、多くの歌を詠みます。

奥州へも2回赴き源の頼朝にも面会します。

西行法師の経歴は?

西行法師は平安時代の歌人で、和歌山の紀の川市で誕生。

裕福な家柄で先祖代々衛府につかえる家柄で、祖先には藤原鎌足の家系の家柄です。

武人や歌人として有名ですが18歳で皇室の護衛艦に任ぜられ、鳥羽院の北面の武士になりました。

同僚に平清盛がいます。

武士としても実力の程が伺えますね。

この当時から歌会があり、西行の歌は高評価を受けていました。

歌も上手く流鏑馬(やぶさめ)に蹴鞠(けまり)まで上手いとは、文武両道ですね。

「北面の武士」の採用には容姿も評価されていたので、西行は頭脳明晰、容姿端麗ということですね。

後は職務の位を上げていくだけですが、23歳の若さで出家します。

西行法師の性格は?

西行が生きた時代は公卿から、武家社会への移行期で、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)があり、中宮や女房達が生きていくためには、想像し難い時代です。

しかし、中宮や女房を物心両面から支えていた形跡が残っています。

西行の一個人の力には限界がありますが、その周囲を気づかう心の深さに尊敬の念と共に共感しますね。

出家した時に妻帯者ですので、妻子を捨てたというと、薄情な人間のような錯覚を受けますが、上の記述でも判る通り、思いやりの深い周囲に心遣いを忘れない人格で、妻子の事は、忘れた事はなかったようです。

弟に今後のことを頼み、様子を見に行くなど心がけていました。

俗世間を捨てて出家したのに妻子の事で苦悩します。

この思いも歌に詠んでいます。

出家後の法名を円位と呼びます。

雅号が西行です。出家後は1か所に留まる事なく、いろいろなところで草庵をたてて生活します。

• 落雷で被害を受けた高野山の復興のために、各地を奔走する。

• 源平の動乱で焼失した東大寺の復興を奥州藤原氏に願いでる。

奥州藤原氏を訪問したのは、70歳位の事です。

伊勢から岩手まで、歩いて往復するのは、大変な覚悟が必要です。

この時に鎌倉の源頼朝とも会っています。この出会いの様子は、後に「吾妻鏡」に記載されています。

その後72歳で人生を終えます。

出家後は草庵に籠るだけでなく、四国や岩手に2回行脚して、その時々で詠んだ歌は830年経った現在でも読み継がれています。

西行法師の経歴と作品

西行法師は北面の武士時代に詠んだ歌も高く評価されていました。

事あるごとに歌を詠んで生涯で詠んだ歌は2000首です以上です。

「詞花集」、「千載集」「新古今和歌集」、に265首が集録。

「新古今和歌集」には94首も集録されて入撰集 第一位。

これほど多くの歌が選ばれるのは西行法師の歌が人の心を惹きつけるからです。

私家集の「山家集」、「山家心中集」、「西行法師家集」、「聞書集」。「山家集」が特に有名で1560首の歌が収録されています。

西行法師の時代の歌は技巧に凝ったものが、主流ですが、西行法師は技巧に拘るのではなく、その時に感じた事、見たことを素朴にありのままに素直に詠んでいます。

「花鳥風月」の自然を詠んだ歌が多く、中でも花と月を詠んだ歌人でした。このような歌が人の心を掴み西行法師の死後500年後に松を松尾芭蕉が尊敬して止まないのも頷けます。

西行法師の伝説や逸話

「撰集抄」、「西行物語」。

数多くの勅撰集に選ばれたり、説話集ができたりすることから考えても、歌は言うまでもありませんが、人柄も周囲から好感を持たれていたことが頷けます。

平安時代末期の動乱期の、混乱した時代に自分の生き方を貫きとおした西行法師はこれからも、多くの人々に感銘を与え続けることでしょう。

西行法師 まとめ

裕福な家柄で先祖代々衛府につかえる家柄で、祖先には藤原鎌足の家系の家柄。

西行法師は出家前は北面の武士であり、平清盛とは同僚。

西行法師は文武両道のエリート。

西行法師は23歳で出家した。

西行法師は歌人としても秀でた人物。

西行法師は願った通りの人生で最期をむかえた。

北面の武士から出家して歌人として才能を発揮して後世の松尾芭蕉をはじめ多くの人々に現在まで多大な影響を与え続けています。

煩悩を断ち切れずにいたが、最後は願った通り桜の季節に最後を迎えることが出来た。

最後まで読んで頂いてありがとうございました。

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