中国書道史の歴史と中国書道史の中の人物について!

書道
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最近一般的に知られている書道史の地域としては、漢字は中国が本場で知られています。

それについで朝鮮と日本ではないでしょうか。

 

中国書道史は中国の古典で有名な漢字の甲骨文字が起源です。しかし、過去に書かれた全ての書跡を見出すことは、難しいと思います。

 

それに全ての書跡が書道史を構成することは不可能でしょう。

 

過去の歴史の中で何らかの動機でその記録が書道史を形として残ったもので、その当時の価値観を反映したものが書道史としてきょうまで伝えられた記録が書道の歴史だと思います。

 

新しい出土品や資料が出て来るたびに、歴史は書き換えられる物です。

 

 

中国書道史の漢字の誕生について

 

漢字の誕生の起源はまだ多くの不明な部分が多く起源の甲骨文字の位置づけが定かではなくこれから先に変更されることもあるかと思います。

 

甲骨文字は純粋な象形文字ではなく絵画的に表現した文字ではなく組み合わせや転用が見られ体系的に整っていてかなり発展した文字です。

 

 

中国書道史の中の書道史

 

書道史を日本とか中国、朝鮮と考えると国家、民族別に考えると中国書道史、日本書道史、朝鮮書芸史として述べられて来ました。このような書道史を東洋美術史とか東洋文化史として考えることもできますが、日本と中国の書道史の経由地域としての朝鮮書道交流史はこれからの課題です。

 

時代別に考えれば、(古代、中世、近世、近代、現代)に区分できます。

王朝別に考えれば(殷周時代から中華人民共和国)まで区分できます。

 

中国古代史で確定しているものは夏(か)(紀元前2100年頃)殷(いん)(紀元前1600年から1027年頃) 周(しゅう)時代紀元前1027頃から紀元前221年頃を総称して「三代」と呼ばれ2000年の長い時代です。

 

殷代の後期には甲骨文字のほか青銅器の銘(金文)が残っています。

 

次の周時代には多くの金文や石鼓文が残っていましす。周の時代は西周から東周、東周の時代は鋳造された青銅器の上に刀で刻りこんで刻銘の存在があります。

 

東周中の春秋時代には貨布文字なども出現します。その後、秦の時代へ変化して行きます。

 

 

秦の始皇帝は文字を統一します

 

秦の始皇帝は広大な領地に中央集権的な権勢と命令を徹底させるために、度量衡(物の重さや長さの単位)を統一していきます。

 

それまで中国各地で地方ごとに文字の統一を実行して均整のとれた端正な字形を示し縦長の美しい姿態は始皇帝の威厳を示すように荘重で力強い文字にかわります。

 

20世紀になって大量に出土した簡牘類によってこの時代の実用通行書体の実態も明らかになりました。

 

当時の脱文解字には大篆(だいてん)、小篆(しょうてん)、寡印(もいん)、刻符(こくふ)、虫書(ちゅうしょ)、署書(しょしょ)、殳書(しゅしょ)、隷書(れいしょ)の8体がありました。

 

 

実用書体が隷書で他は篆書の1種で特殊な用途の応用書体と考えられていました。

 

2002年に出土した里耶秦簡(りやしかん)小篆の結構や書風とは異なった隷書体が既に通行書体として使われていたことが判明しました。

 

睡虎地秦簡は、のちに前漢初期の馬王堆帛書(まおうたいはくしょ)「老子」や銀雀山竹簡(ぎんじゃくざんちくかん)などと基本的に同一書体です。

 

それでわかるように小篆から隷書が作られたのではなく小篆以前の篆書から既に隷書は発生していたことを示す貴重な資料です。

 

その後の書体形成の書道史も新しい資料によって大きく変わりました。

 

王羲之の書は「上品で美しい」と評価されていますが、その「美しさ」は唐の時代南朝や唐代の皇帝の評価に形成された価値観であって北魏の楷書の美しさも清代に評価されたものです。

 

中国書道史を王羲之(露鋒)と顔真卿(蔵鋒)の書風が交替する歴史と言われています。このように書道史は相対的な価値観によるもので絶対的な価値観ではありません

 

「書の美」は相対的な価値観で絶対的なものではないです。

 

 

中国書道史の中の有名な人物について

 

中国書道史で偉大な書道家の代表が王羲之です。王羲之が書いた作品は露鋒で筆の穂先が外に出る書き方です。行書で書かれた「蘭亭序」や「集字聖教序」草書では「十七帖」、楷書の「楽毅論」が有名な作品です。王羲之の作品は整った上品な書体です。

 

太宗は二代目の皇帝ですが、王羲之の作品を気に入っていました。

その太宗の元にも三人の書道の名人がいました。

 

欧陽詢(おうようじゅん)557年から641年

褚遂良(ちょすいりょう)596年から658年

褚虞世南(ぐせいなん)558年から638年です。

 

 

この三人は現在の楷書を完成させながら楷書と行書と草書と篆書と隷書の5つの書体を完成させました。

 

太宗の有名な作品は「温泉銘」(おんせんめい)

欧陽詢の有名な作品は「九成宮醴泉銘」(きゅうせいきゅうれいせんめい)

 

虞世南の有名な作品は「孔子廟堂碑」(こうしびょうどうひ)

褚遂良の有名な作品は「雁塔聖教序」(がんとうしょうぎょうじょ)です。

 

長い間、王羲之が書聖と言うことで仰がれていましたが、この王羲之に書に異論を唱える人が出てきました。

その人が顔真卿(がんしんけい)です。顔真卿(がんしんけいの)の書は王羲之の書いた露鋒(ろほう)筆を打ち込んだ時に筆先が表面に見える書き方に対して顔真卿(がんしんけい)の書き方は筆を打ち込んだ時に穂先が見えない。

 

紙に対して筆の穂先の打ち込みがみえない紙に対して筆の穂先が垂直にかく蔵鋒と言う書き方です。先程の三人に加えて顔真卿を入れると唐の4代家と言われています。

 

王羲之の書が整って上品に書くのに対して顔真卿の書は素朴な太さで力強い線で書かれています。

顔真卿は日本の空海「弘法大師}(こうぼうだいし)にも大きな影響を与えました。

 

現在使われている明朝体は顔真卿の書いた物が色濃く引き継がれています。

顔真卿の有名な書は楷書は「多宝塔碑」(たほうとうひ)と「顔勤礼碑」(がんきんれいひ)

 

行書では「祭姪文稿」(さいてつぶんこう)です。

 

 

中国書道史のに恩恵を受けて

 

私達は普段無意識に書いている文字は王羲之(おうぎし)の影響を受けて引き継がれた先人の恩恵を受けていることにあらためて感謝しながら生活しています。

 

漢字をはじめ漢字の偏(へん)や旁(つくり)から出来たカタカナ、それに漢字をより早く書けるよう万葉仮名の影響を受けて出来た平がな、生活する上で漢字をとカタカナや平がな三種類の文字を巧みに用いていることは素晴らしい日本文化の恵みです。

 

日頃の恵みに先人の知恵に感謝しながら生活出来ることに感謝したいものですね。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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