日本書道史の歴史と人物について弥生時代から平安時代まで

書道
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これから書道を始める方や、書道に関心をお持ちの方へ向けて、日本の書道の歴史について紹介します。

今日の日本では、きれいな文字は書道展などで芸術的に評価されるとともに、書道のスキルは資格として幅広く社会で役立ちます。

こう言う書道の魅力を書道史の視点から紹介します。

書の始まりは、中国の漢字が日本へ伝わった弥生時代から

日本は、最初独自の文字を持っておらず、中国の漢字から書が生まれたと考えられています。

日本に漢字が伝わったのは、弥生時代の頃だと言われています。

書として文字を書き出したのがいつ頃なのか詳しい年月は不明のままですが、残された遺品からある程度の年月が解明されています。

この時期に作られた古墳からは、篆書体(てんしょたい)の『貨泉(かせん)』と言う文字が記された銅貨が出土されています。

「貨泉」

紀元8年、漢の皇帝の外戚である王莽が漢の国を奪って「新」王朝を建てた。この新の時代にだけ作られた銅貨が日本の弥生時代の古墳から発見された。この銅貨には「貨泉」という篆書体の文字が鋳込まれていたためせん(貨泉)と呼ばれています。

現在の福岡県付近で出土した金印には「漢委奴國王」(かんのなのこくおう)と言う文字が記されていました。

漢字が日本に入って来ていた事がわかる遺品は、「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)の金印です。

そして、金印からの書体から日本最初の文字は、篆書体と言う事になりました。

「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)の金印以外の遺品で有名なものに銅鏡もあります。

卑弥呼の事は日本の歴史書には、一切書かれていません。莽

卑弥呼のことが書かれているのは、中国の歴史書「魏志倭人伝}(ぎしわじんでん)だけです。

正確に言うと「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん]と言う歴史書はありません。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)とは、ある歴史書の一部です。日本では、これをアレンジして面白い小説にした「三国志演義」がよく知られています。

卑弥呼が登場するのはこの中の「魏志倭人伝」で倭人(わじん.日本人]のことを書いた部分です。

書道の歴史を簡単に知りたい

書道の起源については、弥生時代に中国から日本へ漢字が渡ってきたのが始まりといわれています。

漢字の文化を持つ中国で書道が発達し、日本へは6世紀から7世紀頃、飛鳥時代から奈良時代にかけて、仏教とともに写経として書道が伝わりました。

写経と晋唐書風の流行と共に、仏教が伝来し、日本の書道は急速に発展します。飛鳥時代の聖徳太子、奈良時代の聖武天皇によって写経が盛行し、国家事業として写経所が設けられて分業で制作されるようになりました。また遣隋使や遣唐使により、中国文化が直接日本に招来するようになり、特に唐代は中国書道の黄金時代で、王羲之の書法が最も尊重されていたことから日本で晋唐の書風が流行しました。
王義之の漢字は上品で癖のない字が特徴です。

書道と共に、毛筆や墨の作り方、和紙の漉き方なども伝わって来ました。

毛筆と墨を使って文字を書けると言うことは、当時の武士や貴族にとっては大切な教養の一つでした。

その他色々な文化、芸術、娯楽などと同様に、時代とともに書道も武士や貴族だけでなく一般庶民の間にも広く浸透していきます。

学校の授業や書道教室などで日本人が書道を習い冠婚葬祭で使用される熨斗(のし)や年賀状、新年の書き初めなど、現在の日本文化として広く日本人の暮らしに息づいています。

書道の歴史の有名な人物は誰がいる(日本)

  • 最澄(伝教大師)(767年 – 822年) 平安時代初期の仏教僧 日本の天台宗の開祖で、伝教大師として広く知られる。唐に渡って仏教を学び、帰国簿、比叡山延暦寺を建て天台宗を開いた。
  • 空海(弘法大師)(774年 – 835年)真言宗の開祖。中国より真言密教をもたらした。能書家でもあり、嵯峨天皇、橘逸勢と共に日本三筆の一人。
  • 紀椿守(776年 – 853年)(きのつばきもり)平安時代の貴族。大納言. 紀麻呂の曽孫。隷書に巧みで、最もその本質を会得していた。
  • 橘逸勢(782年? – …平安時代初期の貴族.書家。参議 橘奈良麻呂の孫。書に秀でて空海、嵯峨天皇と共に日本三筆。
  • 淳和天皇(786年 – 840年)(淳和天皇)日本の第53代天皇。桓武天皇の第七皇子。嵯峨天皇は異母兄。
  • 嵯峨天皇(786年 – 842年)日本の第52代天皇。桓武天皇の第二皇子。。空海、橘逸勢と共に日本三筆。
  • 円仁(慈覚大師)(794年 – 864年)円仁は第三代天台座主。入唐求法巡礼行記

● 最澄 空海. 橘逸勢は書道史でも有名な日本三筆です。

書道の歴史で中国で有名な人物は?

唐の三代家は、中国初唐時代、二代目皇帝である太宗に仕えた臣下の中で特に優れていた虞世南、欧陽詢、褚遂良三人を呼びます。

いずれも王羲之の書を手本としており、成立しつつあった楷書体を完成さました。

代表作には欧陽詢の『九成宮醴泉銘』や褚遂良の『雁塔聖教序』などがあります。

書道の歴史でおすすめの本は

 

 

臨書と言っても膨大な作品数があるので、いちいち法帖を用意するのは大変です。そこで、浅く広く臨書できます。※あくまで書写検定対策としてです。

浅く広く臨書するために愛用している法帖が、天来書院の『これだけは学びたい書の古典』です。3冊揃っていれば有名な古典はほぼ網羅できるので、浅く広く臨書するためには最適です。

 

卑弥呼が魏に使者を贈り「親魏倭王」の称号と金印を賜った物です

この金印が文字の始まりで書体は篆書体です。

江戸時代に出土したこの金印は、今から約2,000年前の西暦57年に中国古代の王朝である後漢(ごうかん)の初代皇帝である光武帝(こうぶてい)が、現在の福岡付近に存在したと推定される倭の奴国の使者に与えたものと考えられています。

そして、金印の書体から日本最初の文字は、篆書体(てんしょたい)と言う事になりました。

「漢委奴國王」の金印以外での遺品で有名な物に銅鏡もあります。

西暦57年から150年後の西暦220年後の邪馬台国の時代に、中国の歴史書である三国志の中の「魏書」(ぎしょ)では先程述べた倭の国々をおさめた指導者である女王卑弥呼について書かれています。その卑弥呼が「数回にわたり中国の王朝である魏に朝貢し、魏からたくさんの鏡を贈られた」と言う記述が残されています。

朝貢:外国の使者などが来朝して朝廷に貢物を差し出すこと。

見つかった遺品の銅鏡である「隅田八幡人物画像鏡」は、中国製の鏡を模して作られたそうなので、この鏡は卑弥呼が魏から贈られたと考えられます。

銅鏡の文字が漢字で記されていることから、この時期には、書が中国から日本に広く伝来していた証になります。

飛鳥時代には仏教の興隆に伴い写経が盛んになります

聖徳太子が仏教を尊信し法隆寺を建立するなど、仏教の興隆に伴い写経が盛んになり、また国家機構が整理されはじめ、戸籍用紙のような公共紙が大量に必要とされる時代が到来するなどして、飛鳥時代には書道は急速に発展した。日本の書道は百済よりの六朝書道から始まるが、聖徳太子が遣隋使を派遣するなど、中国文化が朝鮮半島を経由せずに直接日本に招来されるようになり、随唐の書の影響が現れるようになる。聖徳太子の自筆とされる『法華義疏』4巻は六朝風であるが、『金剛場陀羅尼経』が唐風であるのはその変遷の好例でります。

* 聖徳諸経費等(574年~622年)

聖徳太子は飛鳥時代の皇族、政治家。 用明の第二皇子

 

 

厩戸皇子(うまやどのおうじ)厩戸王(うまやどおう)と言う名前が本名とされることが多いが、戦後に推定された名前が広まったもので古代の文献には見えない。

三経義疏(さんぎょうぎしょ)聖徳太子の真書

* 長屋王 (684年~729年)

奈良時代の政治家であり、政府の首班として権勢を振るうが、藤原氏の陰謀によって自尽に追い込まれる。

文化、知識人としても優れ和銅鏡、神亀経を残す。

* 橘諸兄(たちばなのもろえ) (684年~757年)

奈良時代の皇族、公卿、政治家。敏達(びだつ)天皇の玄孫美努(みぬ)王の子。初名は葛城王で、臣籍降下して橘朝臣となる。初代橘長者。

729年に班田使に任ぜられて、この年に薩妙観(さつみょうかん)に贈った歌をはじめ和歌8首が「万葉集」に収められている。

そして、その後、弥生時代から奈良時代に入ると書からさまざまな物語が生まれてきます。

 

奈良時代(西暦710年)に入ると仏教が広がります

 

聖武天皇の妻である光明皇后が書写した

* 一切経

*華厳経の書写 「紺紙銀色華厳経」

などの写経が知られるようになります。

これらの写経が書の確立のもとになったと言われています。

奈良時代 天平13年(西暦741年)写経から芸術へ

書の確立のもととなった写経に中の一つに、仏教の祖である釈迦の前世の物語と現在の伝記を表した経典、「過去現在因果経」があります。

そこには、紙の上半分に絵、下半分に写経が書かれています。

奈良時代から鎌倉時代にも存在しているこの「過去現在因果経」は、絵画としても有名です。

平安時代 西暦(809年~833年)時代は王朝文化へ

平安時代に入ると、能書(文字をうまく書く人)として

  • 最澄(伝教大師)(767年 – 822年)
  • 空海(弘法大師)(774年 – 835年)
  • 橘逸勢(782年? – …(たちばなのはやなり)が三筆として知られるようになります。

中でも空海は、日本で最も有名なお坊さんの一人「弘法大師」として知られています。

「弘法も筆のあやまり」と言う言葉も空海から出た有名なことわざです。

橘逸勢も中国へ留学し、空海と共に帰国した人物です。

貴族の地位は低かったのですが、優れた能書として有名になりました。

そして、最澄は、平安時代に比叡山延暦寺を建て、天台宗を広めた有名なお坊さんです。

最澄は、中国で中国、唐晋の政治家であり、書家でもあった「王羲之」の書風を学び、引き継いでいきます。

さらに日本に帰国後は中国唐代の政治家であり、書家でもあった「顔真卿」の書風も取り入れて広めていきました。

このように日本の書は、中国の有名な書家の影響を大きく受け今日に引き継がれて行きました。

平安時代中期 西暦928年 書は美しい日本文化へ

 

平安時代中期、遣唐使が廃止された後

 小野道風

● 藤原佐理(ふじわらのすけまさ)

● 藤原行成

この三人の能書が表れます。

この三人は「三蹟」と呼ばれるようになります。

小野道風も、中国の政治家であり書家であった王羲之の書風を取り入れつつ、美しい行草書を書いていきます。

この小野道風の影響を受けた藤原佐理は、さらに伸びやかで美しい書を書いて行きます。

彼の書は現在でも人気があります。

藤原行成に至っては、王羲之に書風に小野道風の書を加えた書風で、雅びやかで淡麗な文字を書く人物として知られています。

平安時代 西暦995年 藤原政権へ清少納言、紫式部が現れる

 

その後も藤原佐理を祖父にもつ藤原実頼が摂関政治を確立し、その甥である藤原道隆と藤原の道長へと歴史が続いていきます。

藤原道隆の長女藤原の定子(一条天皇の皇后)に仕えていた女官が清少納言であり、藤原の道長の娘藤原の彰子(一条天皇の皇后)の女官に紫式部など文才、書に長けた人物がいたことは有名な話です。

今でも空海の書は、日本の書の手本と言われているほどです。

書は、日本の歴史や文化に欠かせないもので奥が深く記事として多くの資料があります。

日本三蹟、日本三筆共に古来より美しい手書きの文字には、日本でも古くから芸術的な価値が認められ、過去から現在まで多くの人の心を惹きつけてきた歴史があります。書道が辿ってきた長い時の流れを辿ることで、日本文化、書道の楽しみを一層深めて、美しい日本の歴史と芸術に触れてみてください。

 

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