俳句が誕生したのは、明治時代になってからですが、江戸時代には俳句の基となる「俳諧」は誕生していました。
句の特徴は目にした情景や心情を詠むことが特徴ですが、小林一茶の句は子供や雀、蛙(かえる)と小さな弱い者への愛情を数多く詠んでいるのが特徴です。
これには一茶自身の境遇も大きく影響していると思います。
小林一茶の本名は小林弥太郎で江戸時代を代表する俳人ですが、雅号は菊明、亜堂、雲外、ニ六庵、俳諧寺などがありますが、後に一茶と名乗ります。
小林一茶の生い立ちと生涯
小林一茶の本名は小林弥太郎で江戸時代を代表する俳人で、1763年6月15日(宝暦13)年に長野県北部、現在の信濃町の農家の出身で1828年1月5日で65歳の生涯を終えます。
一茶は運の悪いことに3歳で実母を失います。
その寂しさを思い出して詠んだ句が、「我と来て 遊べや 親のない雀」です。
その後8歳で父親が再婚します。一茶は父親と祖母とは仲睦まじいのですが、継母に子供が生まれるとなかなか馴染めず、継母の子供(一茶の弟)と不仲でこの事で一茶は生涯苦しみます。
14歳で江戸に奉公に出て、貧しい生活を送りながら25歳から俳諧の道を志し、その中でめぐり合ったのが、ニ六庵竹阿(にろくあんちくあ)という山口素堂(山口素堂)を祖とする葛飾派俳人の門人となります。
その後一茶28歳の時にニ六庵竹阿(にろくあんちくあ)が亡くなって、葛飾派の本流の溝口素丸(みぞぐちそまる)に弟子入りします。
30歳の春から近畿、中国、九州へ旅をしながら俳諧の修行に励み松尾芭蕉のように旅先で句を詠みました。
「初夢に 古郷を見て 涙かな」この句は旅の出先で、新年に初夢を見て望郷の念がこみ上げて来て、涙が出たという意味です。
継母との不仲で家を出た一茶ですが、故郷への思いは経ち難く常に望郷の念は消えなかったようです。
39歳の春に帰郷していますが、そのひと月後父親が病に倒れ必死に看病しますが、願いも虚しくひと月余りで他界します。
父親は遺産を義弟と半分づつ分けるように遺言をしますが、父親と義弟自身が築いた遺産を貰うことなく江戸へ帰ります。
夕桜 家ある人は とく帰る 家のある人は夕方には自宅に帰る、その様子を見てそういう人が一茶から見ると羨ましくもあり、寂しい気持ちになるという意味です。
父親の十三回忌でようやく義弟と和解。しかし、その後も江戸で4年間生活します。
52歳にして故郷に帰り結婚、24歳年下の妻菊を迎えます。これは江戸時代でもかなり晩婚ですが、一茶は29歳の頃は白髪で、女性には縁遠い容貌でした。
「やせ蛙(かえる)負けるな一茶 これにあり」
この句は蛙(カエル)合戦のことを詠んだ句でオス同士が1匹のメスを巡って闘う事を見物して弱いやせかえるを応援して詠んだ句です。
52歳迄女性と縁遠かった一茶自身の不遇を、カエルに重ねて詠んだ句とも解釈されます。
結婚して2年後に長男、千太郎が誕生しますがすぐに亡くなり、その翌年には長女さとが誕生しますが、長女さとも2歳で亡くなります。次男、三男、共に赤ちゃんの間に亡くなります。
一茶自身も58歳の時に脳卒中で半身不随、妻も病死災難が続き家庭崩壊の状態です。
その後高齢の上半身不随で再婚相手とうまくいかず3ヶ月で離婚。64歳の時別の女性と再再婚します。最後の妻やをとの間に娘やたが誕生します。無事に育ったのは三人目の妻やおとの間にできた娘やただけです。
しかし、今度は家が火災、焼け残った土蔵で生活します。
65歳の生涯を閉じます。数々の災難を乗り越えて、2万句と言う数多くの句を詠んで世に送り出した功績を素晴らしく思います。
小林一茶14年後故郷へ!
小林一茶が29歳の夏に父親の病気見舞いで、帰郷した時の記録に「寛政三年紀行」を執筆しています。
冒頭に「西にうろたえ、東にさすらい住の狂人あり。旦(あした)には上総(かみふさ)現在の「千葉県中央部」に喰い夕には武蔵(ムサシ)、「現在の東京都府中市」にやどりて、白波の寄る辺を知らず、たつ泡の消えやすき物から、名を一茶房といふ」。
西にうろたえ、東にさすらうさすらいの身で定まった住み家もない狂人(一茶自身が自分の身をへりくだっていった言葉)。
朝には上総(かみふさ)現在の「千葉県中央部」で食事して、夕方には「現在の東京都府中市」に宿をとる。
白波のよるところを知らない、寄せては引いて引いては寄せる。たつ泡の消えやすい事から名前を一茶と名乗るという意味です。
父親の死後継母と遺産相続で12年間継母と争い、この継母との争いが小林一茶の句風に大きな影響を受けます。
小林一茶の俳句の特徴は?
小林一茶の俳句の特徴は、今までの俳句にはない庶民的で親しみがあり、わかりやすく慈愛に満ちた句が特徴です。
彼が残した句の数は、松尾芭蕉が982句で、与謝蕪村は3000句で、小林一茶は2万句、数の多さがすごいですね。
俳諧とは連歌が派生した短歌の上の句
江戸時代の俳諧は、5.7.5の上の句と下の句7.7を複数の人が詠んで繋げた句で、江戸時代の俳諧が明治時代になってから、「発句」を「俳句」と呼ぶようになりました。
江戸時代の三代俳人は?
小林一茶、松尾芭蕉、与謝蕪村は江戸時代の三代俳人です。
名句を残して多くの俳人に大きな影響を与えたのが、江戸時代の小林一茶と松尾芭蕉、与謝蕪村です。
小林一茶の俳句代表作10句
数多くの句の中から、誰もが知っている懐かしいと思う「代表作」にふさわしい10句を上げてみました。
3歳で実母を失いその後8歳で父親が再婚します。
継母に子供が生まれるとなかなか馴染めず、継母の子供(一茶の弟)と不仲でこの事で一茶は生涯苦しみます。
52歳迄女性と縁遠かった一茶自身の不遇、ようやく結婚しても誕生した3人の子供を失う。
このような悲哀に満ちた人生を体験したことによって、弱い者や小さな者へ目を向けた情景や心情を句として詠んだいます。
① 雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
② 名月を とってくれろと 泣く子かな
③ めでたさや 中位なり おらが春
④ うまさうな 雪ふうはり ふわりかな
⑤ これがまあ 終のすみかか 雪五尺
⑥ 春風や 牛に引かれて 善光寺
⑦ やせ蛙(かえる)負けるな一茶 これにあり
⑧ やれうつな はえが手をする 足をする
⑨ 雪とけて 村一ぱいの 子供かな
⑩ 我と来て 遊べや 親のない雀
小林一茶の句への正岡子規の思い!
明治時代に俳人正岡子規(1867年~1827年)は小林一茶の句を高く評価しています。
その理由は
諷刺=遠回しに社会現象や人物を批判している面白さ
滑稽=詠んだ句がおどけていて面白く、おかしな様子を詠んでいる
慈愛=情けをかける慈しみの心の句を詠んでいる
江戸時代を代表する三代俳人、松尾芭蕉や与謝蕪村と共に一茶の句2万点と数の多さだけでなく面白い句、社会現象や人物を批判してもなお笑いを誘う。
また句によっては情けをかける慈しみの優しい心で呼んでいる。
現在まで人々の心を魅了する秘訣がここにあるのですね。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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