松尾芭蕉の有名な俳句10選と松尾芭蕉の代表作【奥の細道】!

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松尾芭蕉は江戸時代の3大俳人の一人で、与謝蕪村と小林一茶と共に有名な俳人の一人です。

江戸時代の俳句は俳諧と呼ばれ、5 7 5の上の句と下の句、7 7で上の句、5 7 5を詠んで下の句、7 7は他の人が詠んでいました。

当時は単なる言葉遊びの俳諧を芸術までに高めたのが松尾芭蕉です。

これが正岡子規によって、明治時代になって上の句、5 7 5だけで詠んだ句を俳句と呼ばれるようになりました。

その俳諧という俳句の基本になったものを芸術として発展させた人物が松尾芭蕉です。

ここでは松尾芭蕉と松尾芭蕉の有名な俳句10選を紹介します。

 

 

松尾芭蕉の有名な俳句10選

 

 夏草や 兵どもが 夢の跡
② 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる廻る
③ 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
④ 古池や 蛙飛びこむ 水の音
⑤ ゆく春や 鳥啼き魚の 目に涙
⑥ 山里は 万歳遅し 梅の花
⑦ 山路きて 何やらゆかし すみれ草
⑧ 草臥れて 宿借るころや 藤の花
⑨ しばらくは 花の上なる 月夜かな
⑩ ほろほろと 山吹散るか 滝の音

 

松尾芭蕉有名な作品は?

 

松尾芭蕉は俳句だけでなく、おなじみの「奥の細道」という晩年の紀行文が有名です。

 

この紀行文は1689年元禄2年、弟子の河合曽良と共に奥州(東北)から北陸、岐阜の2,400キロを150日間かけての旅で、45歳にしては困難を予想されていましたが、予想を覆しこの旅も成功させます。

 

仮に旅の途中で命を落とすことがあってもそれが天命という強い意志で決めた旅でした。

江戸に帰り付いたのが2年後です。

 

この時の紀行文が松尾芭蕉晩年の有名な「奥の細道」です。

 

 

全国を旅して詠んだ句は全国至る所の石碑などで目にすることが出来ます。

 

 

松尾芭蕉の名前と生涯

 

松尾芭蕉は現在の三重県伊賀市に1644年(寛永21年)に6人兄弟の次男として誕生します。

平氏の末流で旧来の土豪一族の出身です。

土豪とは広域を支配する領主や大豪族に対しての「土地の小豪族」を指す(ウイキペディア引用)

 

松尾芭蕉の父親(松尾与左衛門)は農民ですが、三重県伊賀市の有力者、藤堂藩から準武士と対等の待遇を受けるほどの実力者です。

 

幼名を金作と呼ばれ名前は忠右衛門宗房で徒名(あだな)は甚四郎や甚七郎と呼ばれています。

雅号(俳号)を実名の宗房から、桃青、その後、芭蕉という雅号(俳号)になった経緯があります。

 

藤堂藩は武芸に限らず芸術も受け入れて北村季吟に句の指導も受けていました。

松尾芭蕉は1662年(寛文2年)藤堂良忠に料理人として仕えていましたが、1666年(寛文6年)主君藤堂良忠が27歳で死去。

 

その後藤堂家の料理人を離れ藤堂良忠が27歳で死去という、悲しみと追慕の思いからより一層、俳諧の修行に専念します。

 

1672年(寛文10年)芭蕉29歳の時、初めての句選集「貝おほい」を学問の神:伊賀天満宮に奉納します。

 

1674年(延宝2年)北村季吟の元をから江戸に住み、多くの俳人とめぐり逢い修行を重ね、1667年(延宝5年)俳諧師として免許皆伝、師匠になります。

 

初めに京都の貞門派北村季吟の門下で俳句を詠み西山宗因の影響を受け1678年(延宝6年)34歳の時に桃青と言う雅号(俳号)で松尾忠右衛門宗房は俳諧氏として宗匠になります。

 

その後、36歳の時に江戸の中心地から深川に草案、隠棲。理由は経済的、名声に躍起になる俳句の世界に絶望したことや火事で焼け出されたことから隠棲と諸説あります。

 

草案に芭蕉の弟子たちが一株植えた芭蕉が繁殖して、これ以降雅号(俳号)を芭蕉と名乗ります。

 

1682年(天和2年)12月、天和の大火で芭蕉庵を失い大変な災難に遭いますが、弟子の河合曾良を伴い旅の日記と俳句の創作に励みます。

 

1694年(元禄7年)10月12日、50歳の時旅の滞在先大阪で生涯を終えます。
旅に病んで 夢は枯 かけ廻る

 

滞在先の大阪で、詠んだ有名な句です。

 

 

松尾芭蕉の俳句の特徴

 

江戸時代の俳壇は華やかさや、滑稽な笑いや楽しさを誘う句が多い中で、芭蕉の句は日本人ならでは物静かで詫び、侘びに通じた自然の美しさ感性、心の内面を句として表現し詠んで多くの人に共感を与え、それを全国に普及、浸透させた日本を代表する俳人、文化人です。

 

40歳の時に母が他界。墓参りを兼ねて旅に出ます。

 

江戸から伊勢、奈良、京都、名古屋、木曽を半年間かけて旅を続けます。

この時の紀行文が「野ざらし紀行」です。

 

この旅がキッカケで自然と旅への思いを強めていきます。

「鹿島詣」1,687年同行者は曽良と宋波、趣のある作品。

 

「笈の小文」(おいのこぶみ)杜国の同行で和歌山、大和、須磨、明石の旅。

44歳で高野山、奈良、神戸、秋には長野に行き「更科日記」を執筆。

 

翌年には、弟子の曽良と共に東北から北陸、岐阜の2,400キロの旅で、45歳にしては困難を予想されていましたが、予想を覆しこの旅も成功させます。仮に旅の途中で命を落とすことがあってもそれが天命という強い意志で決めた旅でした。

 

その後京都嵯峨で嵯峨日記を完成、48歳で江戸に戻ります。

 

 

松尾芭蕉の人物像

 

松尾芭蕉は小林一茶や与謝蕪村と共に江戸時代の三大俳人の一人ですが、江戸時代を代表する俳人。

幼名を金作と呼ばれ、名前は忠右衛門宗房で徒名(あだな)は甚四郎や甚七郎と呼ばれています。

 

三重県伊賀市に誕生した芭蕉は20歳の時に詠んだ俳句が入賞し、28歳の頃は伊賀で若手の俳人として地位を築いていたようで、その後、江戸に出て修行をしています。

 

雅号(俳号)を実名の宗房から、桃青、その後、芭蕉という雅号(俳号)になった経緯があります。

 

松尾芭蕉は1662年(寛文2年)藤堂良忠に料理人として仕えていましたが、1666年(寛文6年)主君藤堂良忠が27歳で死去。

 

その後、藤堂家の料理人を離れ藤堂良忠が27歳で死去という、悲しみと追慕の思いからより一層、俳諧の修行に専念します。

 

その後40歳で「野ざらし紀行」、44歳で「更科日記」、45歳で「嵯峨日記」、晩年に「奥の細道」という有名な紀行文を執筆しています。

 

この紀行文は松尾芭蕉の死後刊行されました。

芭蕉は短冊や色紙や俳諧の指導料が収入源ですが、自分の弟子からは指導料は受け取らなかったようです。

 

弟子の河合曾良と奥州、北陸道を150日間かけて旅した時の紀行文が「奥の細道」です。

旅費は深川の家を売却して工面しています。

 

不足分は各地の指導、添削などで得たお金を旅費としたようです。芭蕉の旅は各地の有力者に手厚く迎えられていたようで、酒やうどん、蕎麦などが振る舞われていたようです。

 

江戸時代と言っても過酷な旅ではなかったようで、芭蕉にそれだけの実力が備わっていたからこそできた旅でしょうね。

 

 

 

俳句と川柳の違いは?

 

俳句には必ず季語が入っていますが、川柳は季語を入れずに詠んでいます。
俳句は自然を対象に詠みますが川柳は人事が対象で、俳句は詠む川柳は吐くといいます。

世界で一番短い詩という点では共通しています。
俳句は文語体で、口語体が川柳で私達が日常話したり書いたりしているものです。

 

最後まで読んで頂いてありがとうございました

 

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