紫式部と清少納言の共通点と相違点?二人が宮中で仕えていた后は!

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紫式部と清少納言はともに平安時代中期を代表する重要な女流作家です。

 

二人は常に比較されますが、古典文学の分野で現在まで高い評価を受け後世に多大な影響を与える作品を残した点が共通しています。

 

現在は平安時代の女流作家として有名ですが、その当時は高貴な女性に仕えて日常のお世話やお手伝いをする女房(女官)という立場でした。

 

この記事では、「源氏物語」の作者紫式部と「枕草子」で有名な清少納言、優れた文学作品の作者について紹介します。

 

紫式部と清少納言の共通点は!

二人とも宮廷の女官(宮仕え)として働いていた紫式部と清少納言は、(女官)とは、天皇のお后様に仕えて身の回りの世話から話し相手として、また教育係として、お后様の客人のお取次をする仕事です。

 

お后様に仕える女性を女房と言います。

紫式部も清少納言も女房として働いていました。

 

平安時代の中期には、女房として中級貴族から下級貴族の出身の女性がたくさん宮仕えをしていました。

 

このことから分かるように、紫式部や清少納言などの教養のある女性が集まっており文化的水準がかなり高かった事がわかります。

そんな中から源氏物語や枕草子が創作されました。

 

 

紫式部も清少納言も次女!

紫式部は3男3女の次女で清少納言は3男2女の次女で末っ子です。

 

清少納言は父親が59歳のときの子供で長男とは親子ほどの年齢差があります。

 

 

紫式部も清少納言も生没年が不明!

平安時代の歴史から同じ時代の人物ということは明らかで、清少納言のほうが紫式部より年齢的には少し歳上であったとされています。

 

紫式部は970年から978年、没年は1014年から1031年と幅があり、現在みたいにしっかりとした戸籍がないために明らかなことは不明なままです。

 

清少納言は誕生は966年頃、没年は1025年頃です。

 

 

二人とも藤原家の女房として仕えていた

紫式部も清少納言も仕えていたのは天皇のお后様。

 

紫式部が仕えていたのは藤原彰子(ふじわらしょうし)、清少納言が仕えていたのは藤原定子(ふじわらていし)、二人ともいとこの続き柄です。

 

また、双方の作品は、宮廷生活や女性の心情、風俗・文化など当時の日本社会の様子を詳しく描いた作品です。

 

両者とも、古典文学の分野で高い評価を受け、後世に多大な影響を与える作品を残しています。

 

紫式部は『源氏物語』を始めとする物語を中心とした54帖の長編小説を執筆。

清少納言は『枕草子』を始めとする随筆を中心とした短編作品を執筆。

 

紫式部も清少納言も父親と地方で生活していた

紫式部も清少納言も平安京で生活していた印象がありますが、紫式部は27歳から29歳の頃に福井県で生活していた時期があり、清少納言は9歳から13歳の頃まで山口県で生活しています。

 

理由は父親がその地域を治めるための役職で、現在の知事的な職務のためです。

 

 

紫式部も清少納言も百人一首に和歌が選ばれています

二人とも百人一首和歌が選ばれています。

清少納言の和歌「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」

 

現代語訳 まだ夜が明けない内に、鳥の泣き真似をしても、函谷関の番人を騙しても、逢坂の関は開きませんよ。私だって騙されて戸を開けるようなことは絶対にしませんから!

 

この和歌は、中国の「史記」という歴史書の孟嘗君(もうしょくん)のエピソードを例えて詠んでいるが、宮廷で漢詩の知識をひけらかしていた清少納言からする当然といえる彼女らしい和歌です。

 

紫式部の和歌「めぐり逢いて 見しやそれとも 分かぬ間に雲隠れにし 夜半の月かな」

現代語訳 私が見たのは月だったのかも分からぬうちに隠れてしまった夜半の月、久しぶりに会えた幼馴染も、その姿がはっきり見えぬ内に姿をかくしてしまいました。

 

久しぶりに会えた幼馴染、楽しい時間はあっという間に過ぎ、雲に隠れる月影のようにお別れの時がきてしまった。

 

31文字で表現される和歌ですが、詠み手の思いがかくされています。

その思いを想像しながら和歌に触れることも楽しいものです。

 

紫式部は源氏物語のほかに「紫式部日記」も後世に残しています。

 

この日記から感じ取れるのは彼女の暗いイメージ、人付き合いに悩み、あえて愚かなふりをして、同じ宮廷女房達への不満、源氏物語は54帖と長い長編小説。

 

この長い小説を黙々と書き上げたことからも想像できますが、社交的な性格ではなかったことがわかります。

 

 

 

紫式部と清少納言の性格の違い!

紫式部と清少納言は、文学作品で知られていますが、性格にはいくつかの違いがあります。

紫式部内向的で、物静かで沈黙が好き

 

物事を掘り下げることが多く、物事をよく観察し、思考を巡らせることが得意でした。

感情豊かで、恋愛や情緒的な描写に長けています。

 

一方、清少納言社交的で、貴族社会での儀式や宴会などに参加することが多く、饗宴席で詩歌を披露することもありました。

 

強気で自由奔放で目立ちたがりや、清少納言の表面的な印象はこんな感じです。

幅広い視野を持つことができ、自然や風物詩についての描写に秀でています。

 

簡単に言えば、紫式部は内向的で観察力に優れた側面が強い、清少納言は社交的で情緒的な側面が強いということになります。

 

 

紫式部と清少納言の作品のジャンルの違い!

著作内容の違い:紫式部は『源氏物語』を始めとする物語を中心とした長編作品を執筆し、清少納言は『枕草子』を始めとする随筆を中心とした短編作品を執筆しました。

 

紫式部の源氏物語は、1010年頃から1020年までの間に書いたとされており、中宮とされた藤原彰子をモーフにした主人公・光源氏を中心に、多くの人物とその恋愛模様が描かれています。

 

主人公の光源氏の恋物語で物語で世界最古の女流長編小説で54帖の長編小説。

現在の400字詰め原稿用紙に換算すると1400枚の枚数の大作です。

 

現在では数多くの言語に翻訳されて世界中で読まれています。

 

紫式部は、長い文や詳細な描写を得意とし、物語を書く上での技巧に優れていたと評価されています。

 

紫式部がこの小説を書いた背景には、自分の運命を哀れんだり嫉妬したりする平安貴族たちの姿を描き、哀愁を誘うと同時に自身の才能を示したいという意図があったとされています。

 

清少納言の枕草子は随筆で『枕草子』という言葉通り、「こころに残ったことや、感じたこと、枕元で思いついたことを、つらつらと書いたもの」と言える作品です。

 

『枕草子』は、ある種の日記的な作品であり、清少納言自身の感性や思考が反映された作品となっています。

 

清少納言は『枕草子』を約1000年前の平安時代中期に執筆しました。

 

作品中では、季節感や和歌本や香りなどの自然や美の描写が豊かに織り込まれ、清少納言が感じた喜び、怒り、素敵な情景や興味を惹かれたものについて執筆。

 

清少納言は、短い文で巧みな表現で、普段の暮らしの中で感じたことを繊細に描写しています。

 

『枕草子』の創作意図は、当時の平安文化というものを示し、自分自身の生活や体験を記録することで後世に伝えるという趣旨があったと考えられています。

 

1000年前のものとは思えないほど、現代人にも共感することが書かれていて楽しく読めます。

 

紫式部は、父親が藤原道長という大貴族の家に生まれ、清少納言は上流貴族の家に生まれました。

家格は紫式部の方が高かったといわれています。

 

 

紫式部と清少納言性格の違い!

紫式部と清少納言は性格は対照的なことでも知られています。

紫式部は社交性がない、人付き合いが苦手目立つことを好まない。

 

清少納言は明るく社交的で目立ちたい、現代の感覚で紫式部は陰キャラクター、清少納言は陽キャラクター

 

良し悪しは、人によって好みが大きく分かれる部分でしょう。

 

 

紫式部と清少納言の結婚生活の違い!

紫式部の夫は藤原宣孝で清少納言の夫は橘則光という人物です。

 

紫式部は娘を授かり、清少納言は息子を授かりますが、紫式部は2年の結婚生活で夫に先立たれ、清少納言は10年の結婚生活で性格の不一致で離婚します。

 

離婚と死別で二人とも未亡人になったことがキッカケで宮廷出仕の動機と考えられます。

 

 

 

紫式部が仕えていたのは誰!

寛弘2年12月29日(1006年1月31日)か、寛弘3年(1007年1月20日)より、寛弘8年(1007年)頃まで、一条天皇の后で藤原道長の娘である藤原の彰子(ふじわらのしょうし)のちの院号宣下して上東門院に女房として(現在の家庭教師)として仕えていたのが紫式部です。

 

藤原彰子(ふじわらのしょうし)は後に「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることのなしと思へば」

(この世は私のためにあるようだ、夜空の満月のように欠けたところがない、完璧な世界よ)という歌を詠んだ藤原道長の娘です。

 

藤原彰子(ふじわらのしょうし)の前に一条天皇の中宮の座についていた女性がいました。

その女性が藤原定子(ふじわらのていし)です。

 

 

 

清少納言が仕えていたのは誰!

藤原の定子(ふじわらのていし)一条天皇の后になる女性です。

この女性に993年(正暦四)から仕えていたのが清少納言です。

 

藤原の定子(ふじわらのていし)、藤原の彰子(ふじわらのしょうし)紫式部も清少納言も一条天皇の后に仕えていたのです。

 

藤原の定子(ふじわらのていし)、藤原の彰子(ふじわらのしょうし)一条天皇の后の座を巡って直接対立することはありません。

 

しかし、戦っていたのは、藤原の彰子(ふじわらのしょうし)父である藤原道長(ふじわらのみちなが)と藤原の定子(ふじわらのていし)の兄の藤原伊周(ふじわらのこれちか)従兄弟同士です。

年 表

990年

藤原定子一条天皇の后

 

993年(正暦4)清少納言 藤原定子に仕える。

藤原定子は藤原道隆(中関白と称する)の娘で、中関白の隆盛時代父元輔に似て才気縦横な清少納言は女房にふさわしく藤原道隆や藤原伊周(ふじわらのこれちか)公任(きんとう)、行成らとの機知の応酬(おうしゅう)にも力を発揮した。

 

995年 藤原定子の父藤原道隆が亡くなる

 

996年 藤原伊周、花山法皇と異性問題で自滅。藤原伊周は左遷、兄のトラブルで藤原定子も失脚、出家して尼になる。

 

1006年~1012年 紫式部 藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕える

 

紫式部の父、藤原為時は文章道出身の学者。紫式部は藤原宣孝と結婚し娘賢子(大弐三位)を産んだが夫に先立たれ一条天皇の中宮藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕える。

 

 

まとめ 共通点と相違点!

紫式部も清少納言も優れてた文学作品の作者。

紫式部も清少納言も宮廷で働いていた。

中級~下級貴族の出身。

二人とも次女として誕生している。

二人とも本名が不明で生没年も不明

共に藤原家に仕えていた。

平安京だけに限らず父親と地方で暮らした経験をしている。

百人一首に選ばれている

違う点は作品ジャンル長編小説短編随筆の違い

性格の違い

結婚生活の違い

現在でも色褪せることのない世界に誇る1000年前の女流作家紫式部と清少納言

共通点と相違点比較するとそれぞれの長所と短所が見えてきて面白いですね。

機会をみて「源氏物語」と「枕の草子」読んでみて下さい。

最後まで読んでいただいてありがとうございました

 

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