紫式部といえば、世界最古の歴史的長編小説「源氏物語」54帖を執筆して、なお千年の時を経た現在でも、世界に名を轟かせている人物と言うことは、皆さん知られていることろですね。
前の記事でも述べていますが、紫式部が「源氏物語」を書くきっかけとなったのが、藤原道長の存在があったからです。
藤原道長の長女、「藤原彰子」に仕える女房で、藤原道長から雇用されていたのが紫式部です。
平安時代を生きた二人の間にできた娘・賢子に付いては、紫式部と夫・藤原宣孝の間にできた娘はどのような人物か紹介します。
紫式部は誰の娘を産んだのでしょうか?
紫式部の夫は藤原宣孝です。
平安時代の宮廷で働いていた人物で、藤原氏の一族で役職に付いていました。
その間に生まれたのが、賢子です。
後に大弐三位(だいにさんみ)と呼ばれる藤原賢子が産まれてのは、長保元(999)年。
賢子には、父親の記憶は殆ど無かった筈。
賢子の父親、藤原宣孝は長保3年(1001)年に病でこの世を去っています。
この頃、紫式部は「紫式部日記」にこの当時の心境を綴っています。
「この先どうなってしまうのか」、将来に大変な不安を抱えていました。
この心細さを忘れるために書き始めたのが「源氏物語」です。
この「源氏物語」が人生の転機になります。
寛弘2年(1005)年~寛弘3年(1006)年、一条天皇の中宮・彰子のもとに、女房として仕えることになります。
「紫式部日記」から分かる通り、主人である彰子や道長、一条天皇に尊敬の思いで宮仕えをしています。
しかし、「紫式部日記」の後半になると、女房についての指南書として読み取れるように、日記から指南書として書かれています。
これから、宮仕えをする人物へ向けて書かれた指南書へと変化しています。
それは、娘の賢子(大弐三位)への指南書とも読み取れます。
「紫式部日記」が執筆されたのが、娘の賢子(大弐三位)が10歳の頃からの事で、将来を懸念して、娘のために書かれた可能性は否定できない。
娘の賢子(大弐三位)が14~15歳頃に式部は他界、賢子は母の跡を継ぐように。
彰子のもとに、女房として出仕しています。
式部の女房時代から、賢子は彰子のもとへ出入りしていた。
しかし、賢子が彰子のもとへ出仕すると「さすが式部の娘」と感心したり、「本当に式部の娘」と困惑したり、賢子は和歌の才能を発揮しながら、性格は式部とは正反対で明るく情熱的な女性です。
2024年の大河ドラマ「光る君へ」にも登場する、紫式部の娘。
両親から譲り受けた才能で、恋に仕事にと充実した生涯を送ります。
紫式部は宮廷の女房です。
女房とは、宮廷の后に仕える役職のことです。
大河ドラマでは、「源氏物語の」の内容にオマージュを込めて、時代背景に合わせて脚色されています。
ドラマでは不義の娘が重要な要素として登場するために、そういう設定で取り入れられたのではないかと考えられます。
「百人一首」の和歌を頼りにその人生を追ってみましょう。
紫式部の娘の賢子とはどのような人物!
あとに「大弐三位」として知られる。
式部の娘・賢子は、ほとばしる情熱があり、恋愛経験も豊富。
「こぬ人に よそへ見つる 梅の花 散りなむのちの慰めぞなき」
(いつまで待っても来ない人を思って梅を眺めていました。花が散ったあとにはなぐさめとするものがありません)
賢子を思う定頼の切ない思いが伝わってくる。
しかし、賢子から素直には受け取れない。賢子からは、歌で返している。
浮気者の定頼に「春ごとに 心惜しむる 花の枝に たがなおざりの 袖かふれつる」
春が来るたびに私が深く思う枝に、どなたか気まぐれな袖を触れさせて、その移り香をうつされたのでしょう」。
「合わない原因はあなたにあるのに、よくそんなことが言えたものね」と相手をたしなめている。
賢子は、自分のもとから足が遠のいた定頼に、こんな歌も菊の花とともに送っている。
「つらからむ 方こそあらめ 君ならで 誰にかみせむ白菊の花」
あなたは私に薄情なところがありますが、それでもあなた以外の誰に見せましょうか、この白菊の花を。
そうして、返す歌を送りながらも、賢子は、定頼の後任として蔵人頭になった源朝任(あさとう)とも恋愛関係になる。
ある男性には、こんな歌を贈っている。
「恋しさの 憂きにまぎるる 物ならば またふたたびと 君を見ましや」
(恋しさが、些事に気が散って紛れるくらいのものならば、再びあなたにお目にかかるでしょうか)。
紛れなどしないから、またお逢いしたいのです)とあることから、相手は道長の次男で源の明子を母に持つ藤原頼宗であることがわかる。
紫式部と言う母譲りの巧みな和歌を武器に、賢子は有望な貴公子たちの心を次々と掴んでいきます。
そうして、上流階級の貴族たちに愛されながら、賢子は万寿2(1025)年、道長の兄・道兼の息子藤原の兼隆との間に娘をもうけた。
紫式部の娘の賢子の夫はだれでしょうか?
紫式部の娘・賢子は20代の頃、上流階級の貴族たちに愛されながら、賢子は万寿2(1025)年、道長の兄・道兼の息子藤原の兼隆との間に娘をもうけた。
身分の差から、結婚とは呼べないものだったとする説もあるが、出産したことは確かである。
「栄花物語」に記述されている。
「大宮(彰子)の御方の紫式部が女の越後弁(賢子)、左衛門督(藤原兼隆)の御子産みたる、それぞ仕うまつりける」
同年に東宮、敦良親王第1皇子に当たる親仁親王も誕生。
産んだ母親は道長の娘で彰子の妹、嬉子だったが、出産前に赤裳蒼を患い、2日後に死亡。
乳母に決まっていた女房まで、赤裳蒼によって辞退したため、賢子が母乳の一人に選ばれた。
選ばれたのは、母親の紫式部が有名だから、という理由や兼隆との子どもを産んだばかりであった事が理由にあげられる。
賢子の最後の伴侶は誰でしょうか?
男性遍歴の挙句の果てに、賢子は長暦元年(1037)年に高階成章の妻となり、親仁親王が即位して御冷泉天皇となると賢子には、(さんみのすけ)の官位が与えられた。
下級貴族の娘としては、これ以上ない位まで手に入れた。
その後、御冷泉天皇の治世において、夫の成章は受領として最高の大宰大弐となり、その翌年には従三位を与えられる。
夫の官位と自身の官位から、賢子は「大弐三位」(だいにさんみ)と呼ばれるようになりました。
男性遍歴の末、賢子は結婚した成章は、地方官を歴任していた。
蓄財に励んだことから「欲大弐」として陰口を言われた。
そういう夫だったから、成章が67歳頃死去した後は、十分な遺産を手に入れ、80歳を超える天寿を全うした。
母親の紫式部は、夫・宣孝の死後経済的に困窮した時期もありました。
娘の賢子は、母親の紫式部とは対象的に性格も明朗快活で、恋多き女性であり、経済的にも晩年は何不自由なく人生を謳歌しました。
まとめ
紫式部と夫・藤原宣孝の間にできた娘が賢子(かたこ/けんし)です。
上流階級の貴族たちに愛されながら、賢子は万寿2(1025)年、道長の兄・道兼の息子藤原の兼隆との間に娘をもうけました。
同年に東宮、敦良親王第1皇子に当たる親仁親王も誕生。
産んだ母親は道長の娘で彰子の妹、嬉子だったが、出産前に赤裳蒼を患い、2日後に死亡。
乳母に決まっていた女房まで、赤裳蒼によって辞退したため、賢子が母乳の一人に選ばれた。
男性遍歴の挙句の果てに、賢子は長暦元年(1037)年に高階成章の妻となり、親仁親王が即位して御冷泉天皇となると賢子には、(さんみのすけ)の官位が与えられた。
成章が67歳頃死去した後は、十分な遺産を手に入れ、80歳を超える天寿を全うした。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
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