鎌倉時代の将軍【源氏】は3代将軍まで約30年!北条氏へ執権が変わります?

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鎌倉幕府は12世紀末から源頼朝を初代将軍として1,185年(文治元年)から、140年間続きますが、源氏が将軍職に就いたのは30年足らずです。

 

鎌倉幕府は執権という地位の北条家によって継続されます。

源氏は3代将軍まで終わります。

 

その後勢力を拡大していったのが北条家です。

 

3代将軍以降は北条家の将軍が続きますが、将軍の意志ではなく側近の思いのままに使われる将軍が続きます。

 

 

鎌倉時代の将軍【源氏】は約30年!3代将軍まで

 

初代将軍 源頼朝

在位は1,192年~1,192年の約7年で源頼朝は、鎌倉幕府の初代征夷大将軍、江戸時代末まで約700年という長いあいだ続く武士による政治の礎を築いたのが源頼朝です。

1,147年に清和源氏の家系の源義朝の三男として尾張の国(現在の名古屋市熱田区)に誕生、父の義朝が平清盛と対立した平治の乱で敗れて伊豆流罪は1,159年。

 

1,180年平家を倒し、義経を追放して1,192年、征夷大将軍に任命。源頼朝が死没したのは1,199年1月です。

 

鎌倉幕府の記録史「吾妻鏡」にも暗殺という決定的な証拠はないので真相は現在まで不明なままです。

 

 

2代将軍 源頼家

 

1,202年~1,203年で、頼朝が36歳のときに政子との間に生まれたのが長男の源頼家です。

頼朝が急死するとまもなく2代将軍の皇位継承になります。

 

幕府からは土地の所有は保証されますが、自分の意志とは裏腹に権力闘争に巻き込まれます。

 

皇位継承の3ヶ月後(13人の合議制)が建久10年4月に発足した集団指導体制制度にかわります。名目上は源頼家を補佐する役目ですが、目的は政権を取り上げる事。

 

1,203年、後見役の比企能員(ひきよしかず)をはじめとする比企一族が北条氏により滅ぼされると実弟の実朝が将軍職に就いて、頼家は21歳の若さで伊豆流罪の末殺されます。

 

頼朝がいなくても幕府は機能することに気づいていました。

 

江戸幕府のように将軍が存在しないと幕府が機能しないということではなく、鎌倉幕府は将軍無しで将軍は朝廷への武士団の代表であるだけで実権はない。

 

御恩とは将軍が御家人に土地を与え保証する代わりに、いざという時に自分の武力を提供する関係が鎌倉幕府の特徴です。

 

 

3代将軍 源実朝

 

源実朝は1,202年~1,219年

源頼朝・政子の間の次男になります。北条氏が2代頼家と比企一族を滅ぼして12歳で征夷大将軍に任命。実際の政治は、初代執権の時政、2代執権の義時。

 

静岡八幡宮で頼家の子の公暁(くぎょう/こうきょう)に暗殺されて26歳で没。これをもって鎌倉幕府の源氏の将軍は幕を閉じます。

 

 

北条氏と比企氏の対立

 

源実実朝は源頼家の教育係として複数の武士を選んでいます。その中の一人が比企能員(ひきよしかず)で源平合戦の頃から源頼朝を支えた家臣です。

 

源実朝は藤原定家に和歌を習い、有名な歌集「金槐和歌集」を遺した歌人としても名をのこしています。

 

比企能員(ひきよしかず)の娘、「若狭局」(わかさのつぼね)が源頼家に嫁ぎ「一幡」(いちまん)という男児が生まれて比企氏が有力になります。

 

「一幡」(いちまん)が次期将軍になれば母方の外祖父で比企能員(ひきよしかず)は政治への発言力が強まります。

 

一方、源頼家には「千翻」(せんまん)という後の3代将軍源実朝という歳の離れた弟がおりこの弟には北条時政が後見人。

 

比企能員(ひきよりかず)と北条時政は対立状態にあり、(13人の合議制)が建久10年4月に発足した集団指導体制が敷かれたのはどちらか片方に権力を集中させないための体制でした。

 

4代 藤原(九条)頼経

藤原(九条)頼経は、1,226年〜1,244年の関白・九条道家の子です。

頼朝の妹のひ孫です。3代将軍・源実朝暗殺の後に、将軍に皇族を迎えようとした幕府の画策は不調で、頼朝の遠縁の頼経が4代目。

 

反執権勢力が頼経に接近し、勢力を強めたことで北条氏から追放されて将軍職を嫡子頼嗣に譲りました。

 

5代 藤原(九条)頼嗣

1,244年~1,252年で、4代頼経の嫡男です。6歳で父から将軍位を継承しますが、九条家の政治勢力拡大を嫌った5代執権の北条時宗により14歳という若さで追放され、18歳で没しています。

 

 

6代将軍 宗尊親王

1,252年~1,266年で、後嵯峨天皇第一皇子で皇族出身初の征夷大将軍です。

 

九条道家(頼嗣祖父)の政治介入を嫌った執権北条時頼に迎えられますが、政治的権限はほとんど与えらず、武器を集めるとか敵方と連絡を取るというような疑い(謀反の嫌疑)で解任。

 

 

 

7代将軍 惟康親王

1,266年〜1,289年で、6代・宗尊親王の嫡男で、3歳で将軍に就任します。26歳で解任されて京に戻されました。

 

8代 久明親王

1289年〜1308年で、後深草天皇皇子です。従兄にあたる惟康親王が京に送還され、征夷大将軍に就任しました。

 

政治的力はなし、鎌倉歌壇の中心的存在であったが、征夷大将軍の長期化を嫌った北条氏に解任されます。

 

 

9代将軍 守邦親王

1,289年~1,308年の久明親王の子です。父が解任されて8歳で将軍に就任します。新田義貞のにより鎌倉を攻め落とされた後、将軍職を退いて出家します。

 

 

鎌倉時代の将軍【源氏】は約30年で3代将軍まで!

 

平安時代末期の平氏と戦った当時は源頼朝のような武士団を率いるリーダー的な存在が必要でしたが、朝廷から政治的実権を奪った後は、将軍を補佐する御家人に政治は任せても成り立つ社会になっていました。

 

 

江戸幕府は将軍の存在は必要ですが、鎌倉幕府は初代将軍、源頼朝の死後は御家人でも政治は成立した時代ですね。

 

 

鎌倉幕府の源氏3代将軍の後は北条家が将軍を継承します!

 

初代将軍 北条時政 1,203年(建仁3年)9月~1,205年(元久2年)7月

 

 

2代天皇 北条義時 1,205年(元久2年)7月~1,224年(貞応3年)6月

3代将軍 北条泰時 1,224年(貞応3年)6月~1,242年(仁治3年)6月

4代将軍 北条経時 1,242年(仁治3年)6月~1,246年(寛元4年)3月

5代将軍 北条時頼 1,246年(寛元4年)3月~1,256年(康元元年)11月

6代将軍 北条長時 1,256年(康元元年)11月~1,264年(文永元年)7月

7代将軍 北条政村 1,264年(文永元年)7月~1,268年(文永5年)3月

8代将軍 北条時宗 1,268年(文永5年)3月~1,284年(弘安7年)4月

9代将軍 北条貞時 1,284年(弘安7年)4月~1,301年(正安3年)8月

10代将軍 北條師時 1,301年(正安3年)8月~1,311年(応長元年)9月

11代将軍 北条宗時 1,311年(応長元年)9月~1,312年(応長2年)5月

12代将軍 北条熙時 1,311年(応長元年)9月~1,315年(正和4年)7月

13代将軍 北条基時 1,315年(正和4年)7月~1,316年(正和5年)7月

14代将軍 北条高時 1,316年(正和5年)7月~1,326年(正中3年)2月

15代将軍 北条貞顕 1,326年(正中3年)2月2月~1,326年(正中3年)3月

16代将軍 北条守時 1,326年(正中3年)3月~1,333年(元弘3年)5月

17代将軍 北条貞将 1,333年(元弘3年)5月22日

 

鎌倉幕府を開いたのは源頼朝ですが、源氏が3代将軍で幕を閉じその後の鎌倉幕府を存続をしたのは、実質的に鎌倉幕府は17代にわたり北条家が貢献しました。

 

 

平治の乱

 

平治の乱は1,159年に起こりました。

それを鎮めたとされるのが武士の平清盛です。

 

武士のリーダーであった平清盛は、天皇や貴族の信頼を得て出世していきます。貴族の最高地位の太政大臣にまでつとめました。

 

 

 

 

なぜ平治の乱が起こったのか⁈

 

鳥羽法皇の死後、後白河法皇と崇徳上皇が対立保元の乱が始まり後白河法皇が勝利し実験を握りますが、則近の信西(しんぜい)と藤原信頼(ふじわらのぶより)が対立、これが平治の乱です。

 

平治の乱は保元の乱の勝者が分裂して争いになったことに起因します。

 

 

平氏の滅亡

 

平氏のリーダーは平清盛、源氏のリーダーは源頼朝。

 

保元の乱では、平氏も源氏共に功績を遺しますが、平氏側は手厚い恩恵を受けますが、源氏側は源頼朝だけが一人役職を得ただけです。

 

信西(しんぜい)を排除したい信頼と源頼朝が力を合わせて引き起こしたのが平治の乱です。

 

平清盛が熊野詣のために留守の際、後白河法皇の三条殿を襲い後白河法皇を幽閉火をつけます。

平清盛は後白河法皇を三条殿から助けだします。

 

後白河法皇に信頼、源義朝を襲撃し信頼は平清盛に捕らえられて六。条河原で斬首。

 

平治の乱でをふるいます没したのは信西、信頼、源義朝(源頼朝の父)ですが、その後平氏が権力を奮いますが、20年後の1,185年平氏最後の戦いの場、壇ノ浦(関門海峡)の戦いで平家は源氏にほろぼされます。

 

平清盛が死んで4年後に平氏は滅亡しました。

 

 

武士による政治

 

武士の頂点に立った源頼朝は、鎌倉に武士たちが自ら政治を行う組織が鎌倉幕府です。1,192年には征夷大将軍に任ぜられて幕府は形を整えます。

 

幕府には3つの役所がおかれ、侍所は武士の取り締まりや軍事・警察を担当。

公文所、のちの政所は幕府の財政、財務管理を、問注所は裁判を担当しました。

 

各地方に藩ごとに軍事や警察の役割を果たす守護、土地の管理や年貢の取り立てを行う地頭が置かれます。

 

 

頼朝の死後

 

頼朝の死から20年後に鎌倉幕府と朝廷が争うことになります。御家人は、幕府と朝廷、どちらにつくかで迷ったのです。

 

このとき御家人を説得したのが頼朝の妻の北条政子。政子の言葉を聞いた御家人は一丸になって、朝廷の群を破りました。

 

 

北条時宗

 

1,274年10月、中国大陸で元が中国大陸で大きな力をふるい、日本を攻めます。元は900隻もの大軍で九州の博多に押し寄せました。

 

幕府の執権となっていた北条時宗は元の2度目の攻撃に備えて守りを固めました。

 

 

幕府への不満

 

最初の攻撃から7年後、再び元が攻めてきましたが、このとき日本は元の上陸を防ぐことができたのです。2度にわたる元の攻撃から日本を守ったのが北条時宗です。

 

しかし、日本国内の争いではなかったので、新たな土地を獲得したわけではなく、元と戦った御家人に御恩となる土地を十分に与えることができません。

 

御家人は幕府に不満を持つようになって、幕府の信頼は失われて1,333年、ついに北条氏は滅びて鎌倉幕府は幕を閉じました。

 

いつの時代も無常は世の常ですね。

 

最後まで読んで頂いてありがとうございました。

 

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