荒城の月歌詞の意味と作曲背景!童謡に生きる日本の心?

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滝廉太郎の「荒城の月」は、音楽の教科書にも掲載され、音楽の授業で口ずさんだ哀愁漂う、心にしみる懐かしい名曲ですね。

 

明治34年(1,901年)、20世紀という新世紀を迎えた新鮮さも加わって、島崎藤村や土井晩翠などの詩人が現れ、新体詩運動が栄えます。

 

この記事では、歌詞の意味や作曲背景などについて紹介します。

 

 

「荒城の月」滝廉太郎の曲が作られた背景は?

1,900年代、日本では卒業式でお馴染みの「蛍の光」や、「仰げば尊し」などの日本の歌詞に西洋音楽の曲が主流でした。

 

この歌の誕生のきっかけは、東京音楽学校が明治34年(1901年)に中学唱歌を編纂のため、懸賞募集したのがきっかけでした。

 

明治時代に作曲された、日本を代表する童謡であって、滝廉太郎の代表曲としても愛され続ける不朽の名作です。

 

ベルギーの協会では、聖歌(賛美歌)として歌われ、映画「ララランド」の中では、ピアノでジャズ風にアレンジされ演奏されるなど、世界でも愛されている曲です。

 

東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の校内の教員や、学生に懸賞募集し、学生だった滝廉太郎は「荒城の月」、「豊太閤」、「箱根八里」の3曲を提出。

3曲すべて採用されました。

 

原曲は無伴奏の歌曲です。

 

「荒城の月」の歌詞を作詞したのは、当時の有名詩人土井晩翠です。

作詞 土井晩翠 詩人 英文学者(1,871年~1,952年)で、明治時代から昭和時代に活躍した人です。

 

 

作詞は土井晩翠、作曲は滝廉太郎で日本の歌曲で、七五調の歌詞と西洋音楽のメロディーが融合した名曲です。

 

「荒城の月」は和風の音階ではなく、西洋音楽の音階で作曲された貴重な曲です

 

荒城の月滝廉太郎のモデルとなった城は?

この「荒城の月」のモデルは土井晩翠が、旧姓2校生の時に、修学旅行で訪れた会津若松市の鶴ケ城の、荒涼とした城跡に感銘を受けたことと、故郷の宮城県の仙台市の青葉城をしのびながら詩を作りました。

 

歌碑は、土井晩翠氏の宮城県仙台市の青葉城址、福島県会津若松市の鶴ケ城址。

滝廉太郎氏が曲を構想した大分県竹田市の岡城阯、富山県富山市の富山城西側の4箇所に、設に設置されています。

 

 

20世紀という新世紀を迎え、島崎藤村や土井晩翠などの詩人が現れ、新体詩運動が起こります。

 

「藤晩時代」と称され同じ時代に活躍した「島崎藤村」の詩は女性的で、「土井晩翠」の詩は、漢詩的で男性的な作風が特徴。

校歌や寮歌を数多く作詞しているので、名前を聞いたことはあると思います。

 

滝廉太郎は「花」、「箱根八里」、「お正月」などの歌曲を遺しています。

 

 

【荒城の月】の歌詞の意味は!現代語訳?

1.春には城内で、花見の宴が開かれ

回し飲む盃には、月影が映る

千年の松の枝から、こぼれ落ちた

昔の栄華は今どこに

 

2.秋の古戦場 、陣跡の霜に静寂が満ちる

空を行く雁の群れの鳴き声

敗れた兵の、地面に刺さった刀に映る

彼らの命の輝きは今どこに

 

3.今や荒れ果てた城跡を

夜半の月が照らす

昔と変わらぬその光

主も無く 誰のために

石垣に残るは、葛のツタのみ

松の枝を鳴らす風の音のみ

 

4.天上の月が、照らす影は今も変わらず

されど、世の中の栄枯盛衰を

今もなお、映そうとしているのか

ああ 荒城を照らす夜半の月よ

 

 

 

【荒城の月】滝廉太郎の童謡に生きる日本の心?

このいずれの城も、明治4年(1,871年)に施行された廃藩置県で、壊された城で、この「荒城の月」は挽歌であり悼歌です。

 

武士制度の廃滅を意味する維新後、不満をもった武士達が城に籠もり、反乱を起こすのを怖れた明治政府によって壊されました。

 

当時君臨していた270名の大名と、190万の士族が一夜にして、失業したにもかかわらず、外国の脅威に支えられて反乱もなく明治政府に従いました。

 

 

 

【荒城の月】滝廉太郎の童謡は山田耕筰の編曲によるものです?

発表した時には、滝廉太郎はメロディーしか作っていませんが、現在歌われている「荒城の月」のメロディーと伴奏は、山田耕筰の編曲によるものです。

 

原曲(ロ短調)の1小節を2つの小節に分けて、8部音符を4部音符に置き換えゆったりと歌いやすいように編曲。

 

滝廉太郎は、日本人で始めてのピアノ留学生としてドイツ留学。

 

明治34年4月に横浜を出港、10月ライフプッ匕王立音楽院の試験に合格。

 

音楽史、美学を勉強しはじめたものの、11月25日のオペラ鑑賞の帰途、風邪を悪化させて大学病院に入院、翌年の10月17日横浜に帰国。

 

大分県竹田市の父母の元へ帰省して、旅館で療養していましたが、無くなる直前、あの「荒城の月」が歌われる限り、幻の岡城阯と共に、思い出されるでしょうと滝廉太郎自ら、母へ伝えています。

 

滝廉太郎にとって「荒城の月」は、それほどの自信作だったのでしょう。

 

明治36年(1,903年)6月29日、わずか23歳と10ヶ月の短い生涯を終えました。

 

現在も大分県竹田市では、毎朝6時になると「荒城の月」のメロディーがながれています。

 

↓ ↓

                滝 廉太郎

 

                 ↓ ↓

                土井 晩翠

 

 

荒城の月滝廉太郎のメロディー!メンデルスゾーンの交響曲第3番の影響?

滝廉太郎の「荒城の月」と、ドイツの作曲家「フェックス.メンデルスゾーン」の交響曲第3番は、メロディーもにています。

 

ドイツの作曲家「フェックス.メンデルスゾーン」は、(1,829年)に渡英スコットランドの首都エディンバラのホリルード宮殿、栄枯盛衰と、世の無常を象徴する廃墟を目にして、16小節の楽想を書きとどめた。

 

 

これが交響曲第3番でメロディーは、滝廉太郎の「荒城の月」と共通点があります

 

栄枯盛衰と世の無常を象徴する廃墟、「スコットランドの首都、エディンバラのホリルード宮殿」と、土井晩翠氏の宮城県仙台市の青葉城址。

 

福島県会津若松市の鶴ケ城址、滝廉太郎氏が曲を構想した大分県竹田市の岡城阯、富山県富山市の富山城、西側の4箇所に共通していること。

 

栄枯盛衰と世の無常を象徴する側面は、国の内外を問わず共通していますね。

 

海外の寺院の廃墟と日本の城跡!

スコットランドで栄華を極めた、寺院の廃墟に相当する建物があるとすれば、日本では各地に残された戦国時代の城郭で、栄枯盛衰や諸行無常の印象が、抒情感豊かに描写されています。

 

メンデルスゾーン交響曲「スコットランド」が、初めて演奏されたのは、1,900年12月、滝廉太郎が「荒城の月」を作曲するわずか数ヶ月前のこと。

 

当時東京音楽学校の研究員であった滝廉太郎が、交響曲第3番を耳にした可能性は、かなり確率がたかいでしょう。

 

 

滝廉太郎「箱根八里」は、メンデルスゾーン交響曲第2番「讃歌」、第一楽章との共通点も挙げられることから、メンデルスゾーンの多大な影響を受けています

 

明治時代に作曲された、、日本を代表する童謡「荒城の月」。

 

時間が経過しても、滝廉太郎の代表曲として愛されるづける不朽の名作。

 

滝廉太郎の「荒城の月」と、ドイツの作曲家「フェックス.メンデルスゾーン」の交響曲第3番は、メロディーもにています。

 

明治時代に作曲されて、時間が経過しても今もなお、色褪せることのない名曲、「荒城の月」素晴らしい曲を、いつまでも歌い継いてほしいですね。

 

まとめ

滝廉太郎は日本人で始めてのピアノ留学生としてドイツ留学

荒城の月は明治時代に作曲された、日本を代表する滝廉太郎の代表曲

仙台市の青葉城本丸跡、会津若松市鶴ケ城跡、岩手県二戸市福岡城址、大分県竹田市の岡城阯の4箇所に、「荒城の月の記念碑」が建てられています

滝廉太郎の「荒城の月」と、ドイツの作曲家「フェックス.メンデルスゾーン」の交響曲第3番はメロディーがにている

「荒城の月」は、ベルギーの協会では聖歌(賛美歌)として歌われ、映画「ララランド」の中では、ピアノでジャズ風に演奏され世界でも愛されている曲

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

 

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江戸時代の三代俳人、小林一茶や松尾芭蕉と共に有名な三代俳人の一人が与謝野蕪村です。 1716年(享保元年)から1783年(天明2年)俳句だけに限らす文人画家としても才能を発揮します。 本名は谷口、名前は信章で俳号を与謝野蕪村で他に「宰鳥」、画号は「春星」「謝寅】(しゃいん)など複数があります。

 

 

 

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