文部省唱歌「夕焼け小焼けで日が暮れて」、誰でも子供の頃に口ずさんだことのある童謡です。
真っ赤な夕焼けの状況や、小学生の頃の事が今でも鮮やかに記憶が蘇るのではないでしょうか?
この童謡について、夕焼け小焼けの[小焼け]の意味に付いて解説します。
夕焼け小焼けの小焼けに付いて解説します!
歌詞は
「夕焼小焼で日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
お手々つないで皆帰ろう
烏と一緒にかえりましょう」。
「子供がかえったあおとからは
まあるい大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは
空にはきらきら金の星」
夕焼けで空が赤く染まる町を、子供たちと手をつないで帰る、中村雨紅氏の姿が目に浮かびますね。
さてこの歌の夕焼けは、子供の頃に見ていた光景です。
夕焼けは言葉の意味から分かると思います。
太陽が西に沈む時に、空が焼けたように真っ赤に染る事です。
小焼けとは?
夕焼けほど鮮やかではないけど、夕焼けが終わって太陽が沈んでから暫くすると、太陽に照らされた空がもう一度赤くなります。
この現象が小焼けです。
夕焼け小焼けで…..語調を整えるために添えた言葉とも言われています。
夕焼け小焼けの山のお寺のモデルはどこでしょうか?
夕焼け小焼けの作曲家である、草川信先生が歌のモデルとしたお寺で、長野市の往生寺が歌の山のお寺のモデルです。
夕焼け小焼けはどこにある童謡でしょうか?
童謡詩人中村雨紅(1897年から1975年)が、大正5年(1916年)に第2日暮里小学校へ教師として赴任、その後、第三日暮里小学校へ転勤した後の大正8年(1919年)に作詞した作品です。
荒川区立第三日暮里小学校には、この童謡にちなんだ記念塔が建てられています。
第二日暮里小学校には記念碑があります。
夕焼け小焼けいつの歌?作詞.作曲は誰!
童謡詩人中村雨紅と作曲した草川信氏との共通点は生家の近くにお寺があったことです。
(1897年から1975年)が、大正5年(1916年)に第2日暮里小学校へ教師として赴任。
その後、荒川区の第三日暮里小学校へ転勤した後の大正8年(1919年)に作詞した作品です。
作曲した草川信氏との共通点は生家の近くにお寺があったことです。
「世界音楽全集」春秋社(1930年)の楽譜の終わりに草川氏自ら「大正11年作る」と記しています。
夕焼けで空が赤く染まる町を子供たちと手をつないで帰る雨紅の姿が目に浮かびますね。
この歌の地域は、八王子市恩方とも言われていますが、相原町中相原地区との見方があります。
童謡に歌われた日本の原風景を探すのが難しい!
現在は大人も子供も忙しく「夕焼け小焼け」を見る時間もない。
地域によっては、慌ただしい日常に、また、時間の制約上、また環境によって現在の住まいの高層ビルが空を隠し、夕焼小焼を観賞したくても鑑賞出来ない、自然に触れる事が中々難しい現代。
だからこそ、たまには立ち止まって、童謡の世界と自然を体感して欲しいですね。
定刻に夕焼け小焼けのチャイムを流すのはなぜ?
多くの血町村で、夕方になると決まった時刻にチャイムを流すのは、街中のスピーカは防災行政無線の役割を持っています。
スピーカの故障や不具合が発生すると、住民にとって必要な情報が伝わらず、危険を回避することができません。
そのためにが正常に作動することを点検するためです。
ただし、高い建物や地形などの位置関係、住宅の遮音性の向上によって聞き取りにくい場所があります。
すべての住民に音声で必要な情報をお伝えする事は限界があるそうです。
まとめ
第三日暮里小学校へ転勤した後の大正8年(1919年)に作詞した作品です。
荒川区立第三日暮里小学校には、この童謡にちなんだ記念塔が、第二日暮里小学校には記念碑が建てられています。
小焼けとは、夕焼けほど鮮やかではないけど、夕焼けが終わって太陽が沈んでから暫くすると、太陽に照らされた空がもう一度赤くなる現象。
作曲した草川信氏と、作詞家童謡詩人中村雨紅の共通点は、生家の近くにお寺があったことです。
多くの血町村で、夕方になると決まった時刻に、夕焼け小焼けのチャイムを流すのは、街中のスピーカーが防災行政無線の役割を持っているからです。
素晴らしい童謡を、これからも歌い継いで欲しいと願っています。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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