めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに紫式部57番の意味を解説!

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「めぐり逢いて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな」!

百人一首に収録されている(紫式部)57番 「新古今集」・1499

この歌は平安時代の長編女流作家、「源氏物語」で有名な紫式部の歌、紫式部は歌人でもあります。

学者藤原為時の娘で、一条天皇の中宮彰子に女房として仕えました。

「めぐり逢いて…..」この歌の現代語訳を紹介します。

 

 

 

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めぐり逢ひて見しやそれともの現代語訳!

せっかく久しぶりに逢えたのに、それが貴女だと分かるかどうか見定めのつかないわずかな間にあわただしく帰ってしまわれた。まるで雲間にさっと隠れてしまう夜半の月のように。

 

めぐり逢ひて

月に託してめぐり逢った事。

「月」と「めぐる」は縁語で単語と単語の関係が深く一緒に使われる言葉。

 

身しやそれともわかぬ間に

わかぬ間に

見たのがそれがどうかもという意味で、「それ」は月のことですが、あった友達の事をさします。

見分けがつかない内に、という意味です。

 

雲隠れにし夜半の月かな!

月が雲に隠れてしまったことですが、友達が見えなくなってしまった事を指します。

夜半の月かな

夜半(よわ)は夜中。

夜更けの意味。最後の「…..かな」は詠嘆の助動詞。

「新古今集」や百人一首の古い写本では、「月影」になっています。

 

 

 

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新古今集の詞書(ことばがき)

「はやくより童友達に侍りける人の、年頃ごろ経てゆきあいたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひて帰り侍りければ」とある歌。

 

紫式部が幼馴染の友達との束の間の再会の名残惜しさを詠んだ歌です。

 

最後の「夜半の月かな….」は新古今和歌集では「夜半の月影」と詠まれています。

 

 

作者 紫式部(970年~没年不明)

平安時代の文学研究者藤原為時の娘大弐三位の母

夫藤原宣孝(平安時代中期の貴族)、藤原北家、高藤流、権中納言藤原為輔の子)と死別。

後一条天皇の中宮藤原彰子に出仕。

その傍ら54帖の女流長編小説「源氏物語」や「紫式部日記」を執筆。

 

◎「新古今集」には、幼馴染の友達と久しぶりに逢ったが、ほんの束の間の時間しか取れず月が雲に隠れるように帰ったので詠んだと書いている。

久しぶりにあった幼友達と落ち着いて話も出来ずに帰られてしまった寂しだを詠んだ歌です。

 

紫式部は父親の藤原為時が越前(現在の福井県)に赴任したため20代半ばで地方で過ごした。

雪国での厳しさのせいか1年程で平安京に帰っています。

 

現在のような交通網は発達してない上に、テレビも電話も無い時代。

都を離れて生活するのは、寂しかったことでしょう。

兄が読んでいた中国の歴史書「史記」を暗記して兄の間違いまで指摘するほどの才女です。

この歌にはそうした背景があります。

 

越前国は福井県東北部。

東を加賀の国(現在の金沢県)。

紫式部の父藤原為時が仕事で赴任したのは武生市。

越前富士と呼ばれる日野山や日野川などの景観で有名。

平安時代の長編女流小説家紫式部をしのび3000坪寝殿造りの庭園「紫式部公園」が造られています。

 

中宮藤原彰子に女房として仕えることから源氏物語を執筆、随筆にとどまらす中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人として選ばれるなど歌人としても秀でた才能を発揮しした。

 

日本最古の長編女流作家の以外とも思える地方生活に思いをはせ、訪れてみるのもいいのではないでしょうか。

 

 

まとめ

百人一首で一度は聞いたことのある歌、「めぐり逢いて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな」に付いて現代語訳と意味の解説、参考になれば幸いです。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました

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