秋の夕暮れにはもの哀しさと、郷愁をそそる寂しさがあります。
理由もないのに切ない気持ちが湧き上がるなぜだろう?
この記事では、なぜ秋の夕暮れには、悲しさと郷愁をそそるせつなさや、寂しさがあるのか?
目に見えない心理的な面と目に見える物理的な面から解説していきます。
「秋の夕暮れ」寂しいのはなぜ?宇宙のリズムが関係している!
夏至(6月21日)が北半球では、最も昼が長い、夏至から昼が約1.6分ずつ短くなります。
日の出、日の入りが変わる原因は地軸が傾いているからです。
地球は太陽の周りを公転しています。
地軸が垂直なら夏、冬は無く昼の時間も一定。
地球は地軸に対して23.4度傾いていて、夏は昼の時間が長くなり、さらに太陽との角度が90度に近くなるために、大気のロスが小さくなり暖かくなります。
その為に、北半球では夏場は日中の時間が長く、逆に冬場は夜の時間が長くなり
この傾きによって、太陽の当たる時間が変化します。(oshiete.goo.ne.jp)引用
9月初秋の頃は、夏の猛暑も和らぎ、そろそろ肌寒くなる季節。
それに日照時間も短くなる時期。
秋はその影響で、日が短くなり、肌寒さを徐々に感じる季節
このように体感による肌寒さや目に見える紅葉の鮮やかな赤や黄色の木々、風に舞う落ち葉を見ていると何となく寂しくなります。
現在の童謡や昔の和歌にも秋の歌には、心に沁みる名歌が多いのが事実です。
心に沁みるのには現在も過去も共通点があります。
それは「秋の夕暮れ」がテーマになっている事です。
空気が澄んでくる秋、夕暮れ時の夕焼けは大気の存在する距離が日中と比べて長くなり、散乱を受けにくい赤色が届きやすくなる影響で、黄金色の夕焼けがより鮮やかにきれいに見えます。
現在の童謡から、新古今和歌集まで秋の歌は「秋の夕暮れ」に触れた歌が数多くあります。
童謡の「真っ赤な秋」、「紅葉」、「里の秋」、「故郷の空」、「秋の夜半」、「夕焼け小焼け」、「山里の夕暮れ」、哀愁に襲われ、現代まで秋の名歌には「秋の夕暮れ」の情景を歌ったものが多いですよね。
秋の夕暮れにはもの哀しさと、郷愁をそそる寂しさがあります。
秋の夕暮れ寂しいのはなぜ?もの哀しさと郷愁をそそる寂しさがある
「秋の夕暮れ」、この場面に哀愁やもの悲しさ、せつなさと共に美を感じるのは、日本人ならではの心理ではないかと思います。
和歌にも「秋の夕暮れ 」を歌ったものがあります。
清少納言も枕草子で「秋の夕暮れ 夕日のさして」と書いたように、秋の情趣は夕暮れこそ深まるものとされていました。
古典では、「万葉集」にも「古今和歌集」にもありません。「後拾遺和歌集」の良暹法師が最古の部類です。
勅命は白河天皇、撰者は藤原通俊で承保二年奉勅、応徳3年9月16日完成して、同年10月奏覧されています。
二十巻総歌集1218首で、「古今和歌集」を基として春、夏、秋、冬、賀、別、旅、羇旅、哀愁、恋、雑から構成されています。(ウイキペディア)引用
三夕の歌 新古今集 寂蓮法師 西行法師 定家朝臣
「秋の夕暮れ」に染まる空の色は寂しさと切なさと、悲しい気持ちになりますね。
和歌にも寂しさを詠んだ句があります。
どの歌も三句が「けり」で終わり結句が体言止めになっています。
歌のリズムが3つとも同じでも、歌の内容はそれぞれに違いがあります。
「さびしさは其の色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」 (新古今集) 寂蓮法師
寂しさを感じさせるのはどの色というものではなかった、真木(杉や檜)を見て気がついたよ。
寂蓮は秋らしい紅葉をみたのではなく、緑の常緑樹の山を見て鮮やかな赤や黄色でもなく、地に落ちた灰色でもない、人間の本来備えている感覚的な感情、人の心の寂しさを感じて詠んでいる。
一般的に秋の色と言うと、赤や黄色の「紅葉の鮮やかな彩り」の事ですが、秋の寂寥を誘うのは定番の紅葉ではなく人気のない、「夕暮れ」そのものです。
「心なき 身にも哀れと知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行法師)。
内容としては全く平凡です。「心なき身」とは自身を卑下し顧みたもの。
本来 僧侶とは執着心から離れる事で、喜怒哀楽の感情とは無縁の筈が、いくら修行を積んでも心の底から沸き立ってくるしみじみとした感慨にふけってしまう、妄想を払拭出来ない。
西行法師にとって、喜怒哀楽とは無縁の俗世間から離れている身でも、人間の本来持つ感情はどうしょうもない。
内面の精神世界、煩悩はどうしても断つ事は出来ない。
いくら修行しても、生きている限り煩悩は付きまとうと言う主旨の事。
「見渡せば 花も紅葉をなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ(藤原定家朝臣)
見渡してみても、花も紅葉をない錆びた庵の佇まいだった。
言葉だけを追えば、「何もない粗末な風景のほうが趣がある」と言う「詫び、さび」の表現の美とも解釈できます。
しかし、定家は詫び寂びよりも「秋の夕暮れ」の心身共の、寂しさを表現している。
歌のリズムは同じでも、内容はそれぞれ個性的で、寂連は色のない常緑樹の山を見て紅葉ではない、落ち葉でもない。
彩りの鮮やかな赤でもない、杉、桧の緑の風景に寂しさ、まさに「夕暮れ」そのものに寂しさを感じて、情景の美しさを目で見て詠んでいるのではなく、心の内面を通して心象風景を和歌として表現しています。
私達は、目に見えるものにとらわれやすいですが、目に見えなくても、存在する大切なものに、気づかせてくれる和歌です。
秋の夕暮れ寂しいのはなぜ?もの哀しさと郷愁をそそる寂しさがある
三夕の歌と同じ趣の歌。
「寂しさに 宿を立ち出でて眺むれば いずくも同じ秋の夕暮れ」(良暹法師)
後拾遺集 秋の部に題しらずとしてみえています。
各地を旅していたようですが、比叡山の僧侶で、晩年は大原.雲林院に住んだといわれています。
この事から判るように比叡山は、日本各地から修行僧が集まり日夜賑やかでした。
その後、大原で晩年を過ごした事から、この寂しさは、物心、両面それと、杉、桧、で彩りのある赤、黄色の紅葉ではない。
賑やかな修行僧の多かった比叡山から大原の木立の中の庵での隠棲が、寂しさの大きな要因でしょう。
寂しいので庵を出て辺りを眺めてみたけれど、どこも同じように寂しいと歌った歌です。
移動手段が徒歩しかない時代、しかも籠屋と言っても徒歩。
その時代にはそれが当然ですが、山奥で隠棲となると、一層寂しさが募ったと思います。
人間の感覚も条件的に反応して寂しさが増すでしょう。
人気もない秋の夕暮れ、上の和歌から寂しさが伝わってきます。
内陸部からは人が荷物を背負って、川や海の船着場に集められて、そこから舟に乗せて陸揚げされて、更に荷車に乗せて朝廷や貴族のところに運ばれた時代。
当時の人には、それが当然の社会。
そういう時代に於いて、寂寥とした山里、しかも目に映るのは、杉や桧で彩のある紅葉の赤や黄色ではない。
錆びた庵に佇む僧、この和歌の描写から、物理的な面と心理的な面から寂しさを感じたのでしょう?
古の大原の山奥と対照的に、私達の現在は、人通りがあり、車の往来があり、日常生活の騒音を耳にして過ごしています。
現在でも京都の大原は、京都駅からバスを利用して約1時間を要します。
山奥で四季を通して水も空気も緑も鮮やかできれいなところです。
人の往来も少ない上に季節も秋であればより寂しさが募るでしょう。
まとめ
秋は日照時間も短くなり、肌寒さを感じる時期で物理的な面から寂しさを感じます
秋の名歌には「秋の夕暮れ」の情景を歌ったものが多く秋は夕焼けの空に寂しさを感じます
童謡も三夕の歌「新古今集 寂蓮法師 西行法師 定家朝臣の和歌」も「秋の夕暮れ」の寂しさを詠んでいます
清少納言も枕草子で「秋の夕暮れ 夕日のさして」と詠んだように、秋の情趣は夕暮れこそ深まるものなのですね
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
宜しければこの記事も読んで下さい
コメント